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デヴィッド・ジャクソンのいつもと違ったクリスマス・ストーリー

あけましておめでとうございます。新年最初のお話として、David Jacksonがクリスマス前にイタリアへ出かけて帰ってきた際のとんでもない出来事をご紹介しよう。この話は、すでにイタリアのファン・グループ”PH&VdGG Study Group”のホームページにも紹介されているが、デヴィッド本人は、私が知らせるまでそのことを知らなかったようだ。たぶん、ジャンニが文章を流したのではないか、というのがデヴィッドのコメントだった。以下は、デヴィッドから送られてきたオリジナルのワードでの文章を訳してみたものだ。なにぶん英文和訳は素人なので誤訳がある場合はご容赦願いたい。

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●ア・ディファレント・クリスマス・ストーリー ~ ケース・スタディ
- by デヴィッド・ジャクソン

 - 私は、如何にして自分の楽器たちをなくしかけたのか、そして、どうやってそれらを再び手にしたか!



 昨年12月、クリスマスの1週間ほど前、木曜日に、私は、イタリアでのコンサートのため、いつものようにガトウィック空港からローマへとEasy Jet航空の飛行機で出かけていった。これもまた、いつものように、巨大で重い、サックス類とフルート、それに不可欠なアクセサリー類、例えばストラップやスタンドといったもの、道具類とリードなどがぎっしりと詰まったフライト・ケースを持っていった。その夜、O.A.K.というジェリー・クッティロのバンドとのリハーサルを行った。マーティン・オルコックと私は、「砂漠のクリスマス」と題された、ローマのヴィア・リベッタにあるアンチュ・ライブ・ミュージック・クラブでのイベントでのスペシャル・ゲストだったのだ。その晩のリハーサルは、長くて疲れたが、セットはエキサイティングで演奏はファンタスティックだった。

 金曜日がギグだった。サウンド・チェックの後に人々が到着し始めた。極めて素晴らしかったのは、そこにとても大勢の若い子供たちがいたことだった。ジェリーには魅惑的な8歳のイザベラという名の娘がいた。彼女は、大勢のクラスメイトやその兄弟、連れてきた親たち、それに友達によって握手攻めにあっていた。子供らは皆、赤と白のクリスマスの妖精の衣装を身に着けており、それで、いつものプログ・ロック・クラブのライブの典型的な夜ではないものとなった!イタリアでのライブ音楽はいつも夜遅いのだが、たくさんの人々が集まってきていた!彼らが食事をした後、子供たちはあたりを走り回り始め、一様に騒がしくなってきたのだが、もちろんかわいらしかったのだ。

 私は突然、子供たちに、私のバンドと一緒にやるオープニング曲「コルプス・クリスティ・キャロル」での最低限の合唱パートを教えて、一緒に演奏しようと思いついた。彼らは、この曲をあっという間に熱心に学んでくれた。彼らは思っていた以上に興奮しており、ショーの一部となって、ジェリーのバンドと一緒に演奏することにワクワクしていたんだ!私は、ガブリエレというよく知らないファンが子供たちをまとめるのに素晴らしい手伝いをしてくれた。私たちは、私の即興のソロの間に、完全なサプライズとして子供たちを登場させ、それはとても美しかった。もちろん、イザベラは父親と一緒にステージで歌ったし、妖精たちの合唱団はショーを掻っ攫っていった。それは、とてもエキサイティングな音楽のとても素晴らしい夜だった。

 土曜日、私は帰国の飛行機に乗ることになっていた。しかし、ガトウィック空港へのすべてのフライトはイングランドでのひどい雪のせいでキャンセルされてしまっていた。偶然、私が滞在していた海辺の町オスティアでも雪が降っていた。一人の老人が浜辺での写真撮影に参加していたのだが、彼が「ヒストリコ(歴史的だ)」と叫んだ。「ローマに前回雪が降ってから、25年ぶりだ!」と。

 私は、その便でうちへ帰って、家族とのクリスマスの準備をしたいと思っていたのでいらいらしていた。電話で、なんとか月曜日のフライトを予約できたので、代わりに、マーティンと私は素晴らしいイタリアの仲間ともてなしの週末を送らざるを得なくなったのだ。そう、それはこの世の終わりというわけではなかったんだ、この段階では。

 月曜日のフィウミッチノ空港で、私は自分の荷物をいつものようにチェック・インして、ジェリーがフライト・ケースをセキュリティのX線検査機に乗っけるのを手伝ってくれた。私はそれに手を振って別れを告げた。これまで何百回もやってきたように。そしてケースは出発口の中へと消えていった。

 いつものように、イージージェットでのフライトは機材と乗務員のたくさんの問題があり遅れていた。ガトウィック空港のバゲッジ・ホールに着くと、スーツケースはごく普通に出てきたが、フライト・ケースはただ現れなかった。私は随分長いこと探したのだがまったく落胆してしまった。その後長い列に並んでメンジーズ手荷物管理へとそがなくなっていることを届け出た。私はイージージェットのワールドトレーサー・サービスの番号をもらい、ケースは通常2,3日で見つかると言われたのだ。それが普通だ、と。しかし、そのバゲッジ・ホールは普通どころではなかった。ターンテーブルの間のどの通路にも放置された荷物が何千個とあったのだ。ひとりの地上係員の男性が人々を助けており、もう一人はガラスの向こう側にいた。

 飛行機から降りたときに滑走路を歩いてきたので、ガトウィックの天候が再びとても悪くなることは分かっていた。2時間半ほど探してから、私には自分のバンに乗って、ひどく降りしきる雪の中を家までたどりつこうとする外に選択肢がなかった。

 水曜日、イージージェットのワールドトレーサー・サービスからは何の連絡も情報もなく、私の気分はとても落ち込んでいた。私はこれらの楽器を40年以上も愛用してきたんだ。最近、私の娘ドリーがマンチェスターの「スティーブ」に会ったとき、誰かが私の(同じ)フルートをステージから持ち去ったのを見て、彼と彼の友人がそいつを追いかけていき、道を半分ほど走ったところで追いついてフルートを取り戻し、ギグへと走って戻っていったのだと話してくれたのだそうだ。私はまさにそれを覚えている。誰かが私に、まさにそれが必要なときに私のフルートを客席から手渡してくれたのを。- 奇妙なことだった!1975年のローマで、国家的な事件が起きているさなかに、私たちのトラックが盗まれて、その中にあったすべての私たちの楽器は1週間ほどなくなったままだった。今年、ルフトハンザが数時間ほど荷物をなくしたが、彼らはすぐにケースを追跡し見つけてくれた。私は、何年にも渡って何度か怖い思いをしてきたのだった。

 しかし、今回のイージージェットの状況は、希望がないように見え、そう思えた。ワールドトレーサー・サービスは、荷物がどこにあるのか、最後にどこにあったのかについて何の手掛かりも見つけられていなかった。タグやバーコードは、それらがちゃんとスキャンされてその情報が処理されていなければ、いったいなんの役に立つというのだ?これらが私のなくなってしまった道具なのだ。それらは、私のダブル・ホーン奏法に合うようにカスタマイズされていた。また、オザンナのリノ・ヴァイレッティが今週言った様に、「そのフライト・ケースは、本当に『宝物』だ。その中にあなたの栄えある歴史がすべて詰まっている」のだ。今回、私は本当に最悪の事態を恐れた。私は、イージージェットが正式に「なくなった!」と宣言するまでは、自分のプロとしての生活を立て直すことを始めることも、1ヶ月の失業保険を請求することも出来そうになかったのだ。

 私がどんなにストレスを抱え込んでいるのかがわかったため、妻のスーが職場から電話をかけてきてこう言った。誰もケースを探してなんていないのよ、と。彼女は私に何かしなさいと言った。- 誰か手伝ってくれる人を掴まえてみなさい、と。私たちは手始めにイタリアを当たってみることにした。なぜなら、ケースが本当にフィウミチノ空港を出たという証拠が何もなかったからだ。私のアドレスブックに登録されているあらゆるイタリアの友人たちにメールを出した。誰か空港に知り合いがいる人間はいないかと。友人の一人、天才ミュージシャンでオザンナ仲間のメンバーでもある、ジャンニ・レオーニが空港に電話をしようと言ってくれた。偶然にも、彼は1970年代のプログレッシヴ・ミュージックのファンで、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターや、オザンナ、バレット・ディ・ブロンゾ(ジャンニのバンド)を知っていた同情的な係員と話が出来たのだ。彼は、デスクを離れ、フライト・ケースを探しに行こうと決心してくれた。彼の手には写真があり、彼の頭には、それがどんなものなのか明確なイメージがあった。その夜遅く、彼はケースを見つけた。彼はジャンニに電話をし、ジャンには私にすぐにEメールを送ってきてくれた。「デヴィッド、ドラマは終わった、と君に告げることが出来てとてもとても嬉しいよ:君のフライト・ケースが見つかったんだ!!! それはまだローマの空港にあったんだ、…エレベーターの中に置き忘れられて!!!!!! 私たちのファンであるエリックがそいつを見つけて、私に1分前に電話して教えてくれたよ。」

 木曜日、エリック・コンテはそのフライト・ケースを午後のイージージェットの便に乗るように手配してくれた。彼は私に電話をかけてきてくれて、積み込みが終わったと知らせてくれた。私は彼の親切に、心の底からのありがとうを言った。私はすぐにガトウィック空港へそれを受け取りに出かけていった。だが、その時はまだ、私は、単純なピックアップが如何に難しいことであるのかを知らなかったのだ。

 ガトウィックでは、更なる混乱が私を待ち受けていた。たくさんの便が再びキャンセルとなっており、イージージェットのデスクには100人以上もの人々が列を作っていた。雰囲気は極めて険悪で、しかし、自分の番が回ってくるのを待つ以外に選択肢はなかった。2時間後、私は係の女性に話していた。彼女は適切な内線番号を教えてくれて、私は、まず、そのフライト・ケースが確実に到着しているかを確認しなければならないと強く主張した。私はその番号に30分もの間、なんの応答もないまま電話をかけ続けた。私の息子のジェイクが電話をしてきて言った。「戻ってきて、連絡があるまで寝てなよ」と。私はそうした。さらに30分ほど経ってから、スージーという名の女性がバゲッジ・ホールへのセキュリティ・パスを持ってきてくれた。私は再びメンジーズの係員に会うため列に並んだ。彼はどこにケースがあるのかをまったく知らなかった。私は、もう一度、周りの、混乱を極め、絶望的なパニックに陥った旅行者たちや、ターンテーブル、散らかったバッグ類を見回した。5分後、私は見つけた!

 私のフライト・ケースはターンテーブルの2番に投げ出されていた。ストラップ類は緩んで外れてしまっていた。しかし見た感じはOKそうだった。私の封印シールは剥がされており明らかに開けられていた。私は一方から近寄って中身が大丈夫かを確認した。スージーは、そのケースの中の本当に無数の内容物に驚きながら私を見ていた。明らかに無くなったものは一つもなかった。私は再び一つになり生まれ直したのだ!「ハッピー・クリスマス!」と私が「申告なし」のゲートを1ポンドのカートを押して通っていく際にスージーが言った。

 家についてから、しばらくして、私はワールドトレーサー・サービスの個人ページを開いてみると、「何の情報も得られません」と再び出ていた。私のフライト・ケースは別の無記名のタグが付いて到着していたのだが、オリジナルのタグはどっかへ行ったままだった。実際にこれらの荷物タグを本当に誰かがスキャンして、何かをやっているのだろうか?このシステムの混乱と崩壊の中で、何とかしようという人は誰もいないのだろうか?私はただとてつもなく幸運だったのだろう。私を助けようとしてくれた人々がいてくれて。警備員と妄想とが物事を見つけようとして殺到する誰をも押し留めていた。ものすごい喪失感と混乱の中でも、人々をケアしようとか、何か努力しようという係員はまったくいないように見える。今でもまた、ワールド・トレーサー・サービスはわたしのフライト・ケースがどこにあるのかについては「情報なし」のままだ。もう、私はそれを家に持ち帰ってきているというのに。私はそう入力した!

 クリスマスは旅行者の時期だ。私はイージージェットの列に並んでいるときにコソヴォから来たという男性と話しをした。彼は婚約者のスーツケースを見つけにきたのだという。彼は前日誤って見た目そっくりのものを取ってしまい、それを家に持って帰ってしまったのだという。彼は必死にそれを正しいものと交換したいと願っていた。イージージェットの係員たちは荷物の返還は受けられないと言い、ラベルを剥がしてしまった。それは唯一残っていた本当の持ち主のための希望の光であったのに。私たちは一緒にバゲッジ・ホールへと入っていった。彼にはまったく運がなかった。そこでは、私はま別の音楽仲間と出会った。発明家でもあるヘンリー・ダッグだ。彼もまた自分のバッグを探していた。ダブリン行きの便がキャンセルになったのだという。もう少し時間を遡ると、私は、間違ったチェック・インの列に並ぶように言われたアフリカ人の家族とも話しをした。彼らはコペンハーゲンの親戚を尋ねるはずだったクリスマス旅行を失ったばかりだった。そして自分たちがその便に間に合うようにそこに来ていたことを証明することができそうになかった。

 私はその日の空港での殺伐としたたくさんの人々を後にして、疲れ果ててはいたが幸せな男として家路に着いた。私は家族、友人そしてファンのネットワークに永遠に感謝する。彼らの、私の音楽的キャリアに対する継続的な支援に対して。それは二重に素晴らしいことだ。誰か私の知らない人が、助けを必要としているときに、そうするための余計な距離を行く用意が提供されたのだ。そんな助けなしには、私の家族と私は、こんな素敵なクリスマスを迎えることは出来なかっただろう。

 後で、私はいくつかの事柄を思い出した。ジャンニは、彼とエリックが電話越しにヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターの曲を一緒に歌ったと言っていた。しかし、ジャンニはそれがどの曲だったのかを覚えていなった。私がエリックと話をしたときにエリックは、それが『ザ・リースト・ウィ・キャン・ドゥ』からの「ダークネス」だったと言っていた。音楽は人々をつなぐのだ!

                2010年12月24日 デヴィッド・ジャクソン

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by invox | 2011-01-03 12:19 | ■Music