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Namebound

「名前」のもつ力が恐ろしい。いや、物事に名前を付ける行為が人に及ぼす影響が恐ろしいと言った方が良いかもしれない。

多くの人たちに実感してもらえると思うのだが、例えば、何やら暗闇の中でうごめく正体不明のものを「恐ろしい」と感じるのは、それが正体不明だから。奇態な行動をしている人を怖いと思うのはそれが見ず知らずの人だから。そう、被とは自分が「知らない」ものごとを恐ろしいと思う傾向が強い。でも、いったん、それらの対象となっているものに名前を付けてしまうと、それは途端になんだかよく分からないままであっても「とりあえず(その名前を)知っているもの」に変化して、ひとまず安心することが多い。例えば、暗闇の中でうごめいているものが実は「犬」だったり、そこに生えている柳の木だと「分かってしまえば」と端に怖さが減じる。あるいは、奇態な行動をしている人が「前衛舞踏家」だと知ってしまえば怖さが減じるどころか興味が湧く。

音楽や絵画、その他の造形芸術など、訳が分からないものは「気持ち悪い」とか「分からない」などと言われ敬遠されることが多いが、それらにいったん「ジャズ」とか「抽象画」などの「カテゴリー/ジャンルの名前」が与えられると、「そういうもの」だからと接する側はニュートラルになる。もしくは、「ジョン・ケージ」とか「ミロ」といった「すでに知っている名前」が冠されると、もっと「分かった」ように感じて安心する。特に「聞いたことのある人の名前」が付いたものに対して、人は無防備になりがちだと思う。

だからこそ、自分が初めて接するものに対して、拙速にその「名前」を知ろうとしてはいけないのではないかと思っている。自分が自分自身でそのものを知る前に「名前」を知ろうとすることは、それを知ろうとすることを放棄するに等しい。あるいは、誰にとっても未知のものに簡単に名前を付けることは、それを広く知らしめるためには必要なことだが、同時にそのものが理解されることを阻害する行為になる危険性が高い。それでも名前を付けなければ、不特定のより多くの人々に素早く知ってもらうことは不可能に近い。そして、名前を知らないものに対する反応で最も怖いものは、徹底した攻撃である。つまり、「知らないものは、存在すべきではない」という感情的な反応が、そのものを破壊・殲滅・消滅させようとする過剰な反応である。

もちろん、名前に惹かれて未知のものと出会う、ということもあるだろうが、その場合は実はその名前をすでに聞き知っている場合に限られる。あるいは、それは単にその「名前」の音の響きが、すでに知っているものの記憶を刺激して興味を抱かせるのかもしれない。食わず嫌い、聴かず嫌い、読まず嫌いなどは、その裏返しだろう。人はそれらを意識的にも、無意識の内にも日常的に行っている。そういった反応をさせるもっとも大きなトリガーの一つが名前なのだと思う。

以前、友人と何かの議論をしたときに、友人は「お前レッテルを張ってるだろう」と言ってきたことがあるが、私は「いや、名前の付いた箱の中に、その人物が行った行為をどんどん追加していっているだけだ」と答えたことがある。友人は、どうやら私が「この人はこういうことをする人だ」と「決めつけている」と勘違いしたらしい。事実は「この人は、かつてこういうことをした」という事実の記録が蓄積されているだけにすぎず、そこから「この人はこういうことをする人だ」という推測や断定は行っていなかったのだが、外から見ているとその違いは分からなかったらしい。私は、その対象となっている人がどのようなことしようが、別に驚くことはなく、単に「その人がそういうことをした」という事実を記憶に付け加えていただけなのだ。なので、すべてが「想定外」でも「想定の範囲内」でもないのだ。もちろん必要が生じれば、それらの蓄積を分析し、予測することはある。しかし、必要がなければ、それらは単なる記録にすぎない。


余談だが、事象や事物を説明するのに『だって「○○」は「○○」だろ』としか言えない人は、基本的には莫迦である。もちろん、特定の範囲で人並み優れた才能を持っていることはあるが、所謂一般的な理解力やコミュニケーションの能力においてはきわめて低能である。なぜなら、その「○○」を自分がきちんと理解できていないということを人々に対して曝け出しているということすら分かっていないことを自ら披露している。その人が分かっているのは、それが「○○」という名前である、ということ程度でしかない、ということだ。それでも説明を求めた場合、こういう人たちはどんどん逆切れしていくからますます始末に悪い。そういう人たちには、仕事であれば、全体の流れに影響を与えるような重要なポイントからは外しておくに限るし、プライベートであれば、可能な範囲であまり付合いたくはないものだ。

歴史を眺めてみれば、人や出来事に対して、名前を付けることで、それらを自分の都合の良いように利用してきた権力者たちは大勢いるし、現代であれば、マス・メディアを同じように利用している狡賢い人たちはたくさんいる。名前を所謂名前と限定せずに「レッテルを張る」という時の「レッテル」や、ジャンル、カテゴリー、「何々な人」などの表現も含めて考えれば、それがいかに多いかは実感できるだろう。
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by invox | 2011-11-25 11:12 | ■Human