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「新しい響き+リゲティ追悼」

コンテンポラリーα公演:新しい響き+リゲティ追悼」@すみだトリフォニー小ホール

久しぶりの現代音楽のコンサート。日本人作曲家による作品4つと亡くなったリゲティの追悼の2曲だとのこと。クラシックの音楽理論などは知らないが、自分が楽しめるものは楽しんだし、つまらないと思ったものはつまらなかった。今回、残念ながら「新しい響き」はどこにもなかった。

<新しい響き>
1. 「イン・ザ・ディープ・シー II」 (2006 改訂版 日本初演) 菱沼 尚子
 [2fl,2cl,2perc,pf,vn,vc,cb]
2. 「Eve II」(2001 世界初演) 山本 裕之[vn,vc]
3. 「イン・ザ・ディム・ライト」(2005 日本初演) 伊藤 弘之[fl,cl,vn,vc,pf]
4. 「連歌 II」(1999) 金子 仁美[fl,cl,vn,vc,perc,pf]

<ジョルジ・リゲティ>
5. 「100台のメトロノームの為のポエム・サンフォニック」(1962)
6. 「13人の奏者の為の室内協奏曲」 (1969-1970)
 [fl,ob,2cl,hrn,trb,cem,pf(cel),2vn,va,vc,cb]

日本人の現代音楽の作曲家はまったく知らない人たちばかり。その方が先入観がなくてすむ。1曲目。アンサンブルはバイオリン、チェロ、クラリネットx2、ベース、ピアノ、パーカッションx2という編成。クラリネットは二人とも普通のとバスを持ち替えながらの演奏。細かいフレーズを重ねるミニマルな構成を軸に大きなうねりをパーカッションで作り出そうとしているようにも聞こえる。悪くない。というか、あまりに馴染み深い曲調だ。この1曲だけで判断は出来ないかもしれないが個性は見えづらい。あまりオリジナリティは感じられない。

2曲目はバイオリンとチェロの掛け合い。学生の頃見た海外の実験映画の中に、無機物と無機物の無言会話のようなアニメーションがあったが、そこで用いられていた「言語」がバイオリンだった。もちろん、メロディを弾くわけではなく、現代音楽か即興演奏かとでも言うべき、今なら音響派といってもいいような「音」を用いたものであった。2曲目は直接的にそれを思い出させるもので、これを「作品」として出すことに何の意義も見出せなかった。高度な演奏技法を用いていることは分かるが、難しさのための難しさが先にたち、音楽技術のための音楽とでも言えばいいのか、オリジナリティのかけらも、斬新さも一切ない。50年前なら面白かったかもしれない。

3曲目は再びアンサンブル。とはいえ人数は少なく、きちんとした音程を崩すような音を中心に構成されたもの。これもまたジャズやロックの世界ではよく用いられる手法だ。違いは全編をそれで貫き通したことくらいか。いわゆるDull系の音響派的な楽曲。悪くはないが、新鮮味はあまりない。

4曲目もアンサンブル。これが前半では一番面白かったが、長く記憶に残るほどのインパクトはなかった。考えてみるとこれが一番私には分かりやすかったのかもしれない。曲の骨格がしっかりと見える形であったし、リズムの感覚も受容れやすかった。日本的なもの? 音と音の隙間を空けるという手法がそうだというなら単純すぎる。が、日本の音は、残響よりも、周辺の風の音やざわざわという草木の音、水の音などを含めて楽器の音と絡めながらの間の取り方をしている。コンサート・ホールでの演奏が前提の場合はそれに変わるものが客席のノイズだ。その辺の考え方も訊いてみたい気がした。いずれにせよ、一番面白かったのは間違いない。

15分程度の休憩を挟んで後半1曲目はプロジェクターを用いたPCでリアルプレイヤーを用いた映像の上映。100台の、異なる設定をしたメトロノームをワイヤーでガーっと一度に鳴らし始めて全てが止まるまで。その間のメトロノームの刻むリズムの重なり合いとズレが音楽、という作品。アンソニー・ムーアの「スティックス」を思い出してしまった。あちらは竹の棒を固い床に落としてその音を延々と録音したものだったが、こちらも似たような音響だ。違いはメトロノームには固有のリズムがあること。それが重なったりずれたりというところに面白さがある。前衛ロック的な発想にも通じると言えなくもない。一度体験すれば十分。一度目は面白いが二度目は退屈、という類の作品だ。

そして最後。今日一番の大掛かりなアンサンブル編成。本日の目玉であるリゲティの作品。こちらはさすがに最初から最後まで飽きさせない。緊張感が持続するし、面白い。今となってみれば、これも「古典的な」現代音楽作品としか聞こえないが、それでも「音楽」を音楽として留めようとするかのようなこだわりを感じるし、それが前半の日本人作曲家の作品との違いとして際立っていたようにも思う。音楽とは何か、根本的な問いに立ち返るコンサートだった。

このコンサートで強く感じたのは、今回の作品の多くが、まるで科学者の実験のようなものに聞こえたということ。そこに演奏家の存在はなく、音楽すらない。あるのは、「試してみたい」論理と手法のみ。まるでそういう風に聞こえたし、見えた。もちろん、「ポピュラー・ミュージック」ではない「シリアス・ミュージック」は違うんだ、という主張もあるかもしれない。だが、私は音楽を聴きたい。

クラシック系の音楽を学んだミュージシャンは、ある意味優秀な職人だ。彼らの多くは演奏家ではあってもアーティストではない。そこがジャズやロックとの違いになっているように思う。もちろん、ジャズだから、ロックだからすべてアーティストだとは言わないし、言えない。やはり、そこに横たわる境界線は、即興やアドリブでも、あるいはきちんと楽譜にしたものでも「作曲する」行為の有無だろうか。「オリジナルな音楽を創り出す」行為があるかないかというのは非常に大きいような気がする。どんなに技巧的に優れていても、職人は一時的な存在に過ぎない。芸術家は、一瞬で消えるかもしれないが、長く残る可能性をも持っている。実際、クラシックの世界でも、楽譜の解釈をどう行うか、というところでオリジナリティを見せることが出来た指揮者や演奏家はより芸術家に近い扱いを受けているのではないだろうか。

「誰々に師事」という経歴が演奏者のプロフィールから消えることがなければ、その演奏家は単なる演奏者=職人でしかない。電機の世界でも、米国では回路を考えることの出来る人はエンジニア、回路は考えることは出来ないが実際の基板作成が出来る人をテクニシャンと呼んで区別している。それは、まさに芸術家と職人の差と同じものがあるからだろう。技術は学べるが、創造性は学ぶことは出来ない。いつか、模倣・トレースから抜け出すことが出来なければ、一生職人で終わることになる。もちろん、自分の周りだけで音楽を楽しむのが目的であれば、それでも十分すぎるほどではある。

一方で、実際の技術を知らないエンジニアは成果を出せないし、演奏技術がある程度なければ、作曲家だってちゃんとした作品を作れないだろう。そういう平凡な学者タイプは沢山いるが、そういうのに限って自分の作品が如何に平凡か、如何に井の中の蛙状態かを理解できずにいるように思えるし、演奏者や聴衆が自分よりも下だと見做しているように思える。
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by inVox | 2006-12-16 13:55 | ■Music