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カテゴリ:■Human( 10 )

「名前」のもつ力が恐ろしい。いや、物事に名前を付ける行為が人に及ぼす影響が恐ろしいと言った方が良いかもしれない。

多くの人たちに実感してもらえると思うのだが、例えば、何やら暗闇の中でうごめく正体不明のものを「恐ろしい」と感じるのは、それが正体不明だから。奇態な行動をしている人を怖いと思うのはそれが見ず知らずの人だから。そう、被とは自分が「知らない」ものごとを恐ろしいと思う傾向が強い。でも、いったん、それらの対象となっているものに名前を付けてしまうと、それは途端になんだかよく分からないままであっても「とりあえず(その名前を)知っているもの」に変化して、ひとまず安心することが多い。例えば、暗闇の中でうごめいているものが実は「犬」だったり、そこに生えている柳の木だと「分かってしまえば」と端に怖さが減じる。あるいは、奇態な行動をしている人が「前衛舞踏家」だと知ってしまえば怖さが減じるどころか興味が湧く。

音楽や絵画、その他の造形芸術など、訳が分からないものは「気持ち悪い」とか「分からない」などと言われ敬遠されることが多いが、それらにいったん「ジャズ」とか「抽象画」などの「カテゴリー/ジャンルの名前」が与えられると、「そういうもの」だからと接する側はニュートラルになる。もしくは、「ジョン・ケージ」とか「ミロ」といった「すでに知っている名前」が冠されると、もっと「分かった」ように感じて安心する。特に「聞いたことのある人の名前」が付いたものに対して、人は無防備になりがちだと思う。

だからこそ、自分が初めて接するものに対して、拙速にその「名前」を知ろうとしてはいけないのではないかと思っている。自分が自分自身でそのものを知る前に「名前」を知ろうとすることは、それを知ろうとすることを放棄するに等しい。あるいは、誰にとっても未知のものに簡単に名前を付けることは、それを広く知らしめるためには必要なことだが、同時にそのものが理解されることを阻害する行為になる危険性が高い。それでも名前を付けなければ、不特定のより多くの人々に素早く知ってもらうことは不可能に近い。そして、名前を知らないものに対する反応で最も怖いものは、徹底した攻撃である。つまり、「知らないものは、存在すべきではない」という感情的な反応が、そのものを破壊・殲滅・消滅させようとする過剰な反応である。

もちろん、名前に惹かれて未知のものと出会う、ということもあるだろうが、その場合は実はその名前をすでに聞き知っている場合に限られる。あるいは、それは単にその「名前」の音の響きが、すでに知っているものの記憶を刺激して興味を抱かせるのかもしれない。食わず嫌い、聴かず嫌い、読まず嫌いなどは、その裏返しだろう。人はそれらを意識的にも、無意識の内にも日常的に行っている。そういった反応をさせるもっとも大きなトリガーの一つが名前なのだと思う。

以前、友人と何かの議論をしたときに、友人は「お前レッテルを張ってるだろう」と言ってきたことがあるが、私は「いや、名前の付いた箱の中に、その人物が行った行為をどんどん追加していっているだけだ」と答えたことがある。友人は、どうやら私が「この人はこういうことをする人だ」と「決めつけている」と勘違いしたらしい。事実は「この人は、かつてこういうことをした」という事実の記録が蓄積されているだけにすぎず、そこから「この人はこういうことをする人だ」という推測や断定は行っていなかったのだが、外から見ているとその違いは分からなかったらしい。私は、その対象となっている人がどのようなことしようが、別に驚くことはなく、単に「その人がそういうことをした」という事実を記憶に付け加えていただけなのだ。なので、すべてが「想定外」でも「想定の範囲内」でもないのだ。もちろん必要が生じれば、それらの蓄積を分析し、予測することはある。しかし、必要がなければ、それらは単なる記録にすぎない。


余談だが、事象や事物を説明するのに『だって「○○」は「○○」だろ』としか言えない人は、基本的には莫迦である。もちろん、特定の範囲で人並み優れた才能を持っていることはあるが、所謂一般的な理解力やコミュニケーションの能力においてはきわめて低能である。なぜなら、その「○○」を自分がきちんと理解できていないということを人々に対して曝け出しているということすら分かっていないことを自ら披露している。その人が分かっているのは、それが「○○」という名前である、ということ程度でしかない、ということだ。それでも説明を求めた場合、こういう人たちはどんどん逆切れしていくからますます始末に悪い。そういう人たちには、仕事であれば、全体の流れに影響を与えるような重要なポイントからは外しておくに限るし、プライベートであれば、可能な範囲であまり付合いたくはないものだ。

歴史を眺めてみれば、人や出来事に対して、名前を付けることで、それらを自分の都合の良いように利用してきた権力者たちは大勢いるし、現代であれば、マス・メディアを同じように利用している狡賢い人たちはたくさんいる。名前を所謂名前と限定せずに「レッテルを張る」という時の「レッテル」や、ジャンル、カテゴリー、「何々な人」などの表現も含めて考えれば、それがいかに多いかは実感できるだろう。
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by invox | 2011-11-25 11:12 | ■Human
学生時代からの知り合いが亡くなった。土曜日の彼のmixiへの書き込みを読んだばかりだというのに、もう彼はいないのだという実感は、湧きようもないが、訃報連絡がまわってきたりすると、あぁ本当なんだなとぼんやりと、呆けた様になってしまう。



あっちの世界、向こう側、この世ならぬもの、常軌を逸した人や物事と出遭った時に、こういう言葉を使うことがある。あるいは自分自身のありようを説明しようとした時に、頭だけがこちら側に出てはいるが、体のほとんどは向こう側にあるような気がする、などと言ってしまう。そう、自分がいつ、本当にすべてあちら側に行ってしまうのか判らない、という恐怖は身近なものとして常にある。そうならないように、自分自身をこちら側に繋ぎとめているのは、理性であったり、音楽であったり、人であったりする(その中で一番頼りないのが理性。それはもっとも理に適った理解の仕方だと頭の中でささやいているのが理性。それを疑っているのも理性だ)。


自分というものが時間的に空間的にどのように「存在」しているのかを考えていくと、結局「存在」していないことが証明されそうな気がする。時間も空間も根源的に同じものであるという理解をしているからかもしれないが、そういった「時空間」とでも呼ぶべき世界の「内側」にあって、常に移動しているのが「存在」であり、それは時間的にも空間的にも決して同一の固定された状態を持たないものであるが故に、それを一般的な理解における確固たる「存在」とは言えないのではないか、と思うのである。ただ、自分が安心するためだけに、仮に存在していると想定しているだけに過ぎず、そうすることによって、理解しやすいものだけを理解しているのではないか。

何ものも、同じ瞬間に異なる空間を占めることはできないし、また、空間は固定されていないが故に、同じ空間を異なる瞬間に占めることはできない。これは出来るように見えるのは、「同じ空間」が実は同じではないことを無視しているからに過ぎない。と、私的に思う。物理学者がどう言っているのかは知らないが。

だから、空間に、人間が認識できるだけで3つの次元があるとすれば、時間にも同様に少なくとも3つの次元があって何ら不思議ではない。仮にX軸、Y軸、Z軸があるとしたら、自分がいる、と信じている「今、ここ」の座標は時間的にも空間的にも[+、+、+]であると前提条件をおき、あちら側の世界を、どの軸かが「-」になっているものと考えると、実に自然なことに見えるのだ。そういう越境行為が起きるためには何が必要なのか、一般的に「死」と呼ばれることなのか、それ以外にも何かがあるのか、よく分からない。

あるいは、よく言われるように、空間にも時間にも4次元とか、5次元とか、さらに上位の次元があるとした場合、それらをどのように表現すればよいのか私にはよく分からない。一般的に、空間の概念においてある事象の[対称]を求めるには、その一つ上の次元を用いなければならないと言われていると聞いたことがある。2次元のもの(例えば「面」)の対称を求めるにはそれを3次元の概念の中で捉えなければならない(つまり、その「面」から離れたところに点なり線がないと対称となる「面」が存在し得ないということ)とか。であれば、人間が現在認識している三次元の対称となるものは4次元の概念のうちにおいて考える必要があるのだが、それが一体どういうものであるのかは三次元という制約の中にある人間の認識力や思考力ではそもそも考えることが出来ないのではないか?という恐怖もある。

そうしたときに、ふと、先述のように「いや、待てよ、4次元だ5次元だと言う前に、そもそも三次元における各軸のマイナス象限について、あまりにも知らないのではないか。知らないが故に、単純に無視してしまっているだけなのではないか」ということを考えてしまうのだ。空間における「負」の概念については、いろいろな研究があると思うし、実際「反物質」などのような手がかりになりそうな概念もある。だが、時間についてはそもそも時間に三つの軸があるという考え方自体、自分以外でそんなことを考えている人がいるのかさえ知らない。私的には時間のマイナス象限は、今の常識から行くと、時間が逆行・遡行する方向に流れる、というものではないような気がしている。もちろん、三つの軸が全てマイナスであれば、そうなるのかもしれないが。


こういったことを、もう30年以上も思ってきている。



彼は、どこへ行ったのだろうか。
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by invox | 2011-09-13 16:09 | ■Human
イギリスのデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンのレコーディングやライブにおいて、長年のパートナーシップを続けているエンジニアのテッド・ヘイトンさんが、デイヴやバーバラとも連絡を取り合って、日本のファンに向けての共同メッセージ(テッドとペトラのヘイトン夫妻、デイヴ&バーバラの4人の連名です)を送ってくださいました。

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To all our friends in Japan:

We are thinking of you all at this difficult time and are very sorry to hear of the dangerous conditions caused by the earthquake and tsunami.
If things get worse and you need a place to go, you are welcome to come and stay with us in England.

All the best,

Ted & Petra Hayton, Dave Stewart & Barbara Gaskin.(2011/03/19)

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私達は、この困難なときにあたって、あなた方皆のことを思っています。また、地震と津波によって引き起こされた危険な状況を聞き、とても気の毒に思っています。
もし、ものごとがより悪くなって、行き場が必要となったならば、あなた方がイングランドに来て私達と共に過ごすことを歓迎します。

幸運をお祈りします。

テッド&ペトラ・ヘイトン、デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキン

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また、このメッセージを掲載するに当たり、テッドに確認をさせていただきましたが、さらに次のような暖かい言葉をいただきました。

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We know from our visits that Japan is an extremely kind and extraordinary nation and very much look forward to a time when we can visit your wonderful country again.

With fondest wishes

Ted & Petra

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e0006365_10371466.jpg私達は、自分達で訪れたことがあるので、日本が極めて親切で類まれな国であることを知っています。そして、また、あなた方の素晴らしい国をもう一度訪れることが出来る時がくることをとても楽しみにしています。

最も愛情のこもった願いを込めて、

テッド&ペトラ


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遠く離れたイギリスから、このような暖かなメッセージを頂いたことにとても感動しました。また、バーバラやテッドとのメールのやり取りをしていて、彼らが本当に日本の事を心配してくれているのだというのが、ひしひしと伝わってきました。私自身は地震当日は東京都内にいて、帰宅難民となり、職場に椅子を並べて1時間程度しか眠れなかったとは言え、翌日には、通常の3倍近い時間がかかったとは言え帰宅でき、自宅もCDや本が少し棚から落ちていただけですんだ、幸運な部類ですが、イギリスからは、福島の原発の状況もよく分からず、とてもショッキングな映像がテレビでは放送されたため、本当に驚きかつ心配してくれたようです。

それにしても、このようにメッセージをいただけるとは思ってもみませんでした。本当に、また、彼らに会いたいものです。願わくは、デイヴ&バーバラの日本でのコンサート、という形で。
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by invox | 2011-03-22 11:33 | ■Human
今回の地震では、金曜日に都内で見事に帰宅難民と化してしまい、職場で一泊。椅子を3つ並べて浅い眠りを1時間ほどで長野北部の地震で中断され、早朝の人の殺到している駅から通常の3倍近い時間をかけて帰宅。自室の棚から少しだけCDや本が落下していました。

タイミングの悪いことに、自宅のPCのモニターが先週から不調で画が出ない状態。ノートPCで急場をしのいで入るもののデスクトップPCに入れているデータにアクセスできないのは不便極まりない。

金曜日の地震直後に、ニューヨークのKukyから安否確認のメール。ひとまず大丈夫だとの返事をしたが、その後夜明けと共にイギリスからも連絡がちらほら。バーバラ・ガスキンさんからも心配しているとのメールが。一日中テレビの報道を見ているとの事。また、デヴィッド・ジャクソンからも、最初はラジオでニュースを聞いていてこれほど大きな地震だとは思っていなかったが、夕方テレビのニュースで映像を見て慌てて連絡をしてくれたとのメールを頂いた。エド・クラークもフェイスブックで心配してくれるメッセージをもらった。皆さん、ありがとう。

都内の知り合いにもメールで安否を聞いてみたが、ひとまず大きな被害を受けた人はいないようでとりあえずほっとした。ただ、実家が仙台にあるとか、岩手にあるという知り合いもいて、気が気ではない。福島県郡山の知り合いとは今日連絡が取れた。これからが本当に大変な時期だ。津波の被害を受けたところは、衛生面でも気をつけなければならないだろうし、水と食料の確保が第一だろう。夜の気温もまだ冬のそれだ。体力の落ちている人も多いだろうから心配だ。

九州の実家への連絡は、金曜の内にメールでして、土曜に電話もしたが、実家の近くでも30~70cmの津波があったとのこと。やれやれだ。そういえば、土曜に帰宅する途中の道路が何箇所かアスファルトがひび割れていた。やはり無傷というわけには行かないなぁ。

追記; その後、ピーター・ハミルさんとヒュー・バントンさんからもメールをいただきました。皆優しい。それにしても、気になるのは福島原発。

追記2; さらにデイヴ・スチュアートさん、パウリーナ・レルヒェさん、ガイ・エヴァンスさんからもメッセージが来た。パウリーナによれば、日本にいるフィンランド人も100名程度の連絡がとれないと報道されているとか。皆さんのご無事を祈る他ない。

追記3: その後、イタリアに住んでいるリチャード・シンクレアさんからもメールをいただきました。以前、イタリアで大きな地震があったときにこちらから安否を問うメールを出したことがあったのを覚えていてくれたようです。
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by invox | 2011-03-13 11:28 | ■Human
90歳だったというアーサー・チャールズ・クラークがスリランカの自宅で亡くなったそうだ。近年は若い作家とのコラボレーションも意欲的にやっていただけに残念。

全邦訳を集めているわけでもないが、それなりに好きで、物の見方については影響も受けている。ゆっくりと未読作品を読んでいきたいと思っていたところだった。

中学の頃だったかに「都市と星」「銀河帝国の崩壊」を読み比べてみたりもした。これらはとても好きな作品で、近年のグレゴリー・ベンフォードとの共著という形を取った「悠久の銀河帝国」も読んだ。「幼年期の終わり」は「地球幼年期の終わり」というタイトルのもので読んだ。「海底牧場」はずいぶんと後になって読んだがとてもよかった。

クラークというとずいぶんとアカデミックな印象がある。ほかの作家が「科学的な」正確さや論理性のある記述において劣っていると言っているのではなく、ほぼ間違いなく語り口の問題だろう。翻訳の仕方かもしれないが、クラークは精緻な表現で整然としたクールな印象があるのだ。その辺もまた魅力の一つだろう。

思い出すのは、大学時代、当時出たばかりの「2010年」が読みたかったがハードカバーでは高くて買おうという気にならず、立ち読みで何回か通って読み通したことだ。そんなことを舌のは、後にも先にもこの時だけだ。クラークの「2001年」の続編が出た!という興奮がそうさせたのだろう。まさか、その後もシリーズが出るとは思っていなかった。
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by invox | 2008-03-24 23:36 | ■Human
e0006365_23571212.jpg久しぶりのバルセロナだ。最後に来た時にはまだユーロ導入前。5年以上も前の話だ。3度目の訪問とは言えまるで初めて来たかのような印象だ。街は近代化されたビルが増え、街路沿いの広告もモダンなものになっているし、レストランもその店構えが現代的なものになっている。ホテルはインターネットが使える(もちろん有料だ)し、街中の路地の奥にもインターネット・カフェが見受けられる。道路も幅広く綺麗で欧州各国から来たと思われる観光客が平日にもかかわらず(とは言え、まだイースター休暇の人も多いのだろう)大勢いた。以前来た時とは街のモダン度が大きく違っている。こうして近代化されていくのは清潔さや治安の向上という点では大歓迎だが一方で昔ながらの情緒という点では徐々に失われていくのだろう。
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今回、仕事の合間を縫って見ることが出来たのはバトリョ邸だ。ガウディの建築の中でもかなり間近に見ることが出来るものだ。実際に中に入って音声ガイドを聞きながら上の階へと上っていくのだが、独特の曲線と円とが組み合わさった窓や壁、タイルに家具・建具は非常に面白い。現実的な住居としてみた場合も、それぞれの形状にはそれぞれに合理的な理由があり、快適な生活を目的としていることが良く分かる。空気の流れ(換気)や光の流れ(採光)が現代でも通用する理論に基づいて計算されているのだ。これには驚かされた。もっと驚いたのはガウディ自身は建築のことは素人だったことだ。建築そのものは専門化が行い、そこに装飾部分をつけるという形で設計思想そのものに影響を与えるということが出来たのだから驚きだ。現場で物を見ながら指示を出していったというのだから、インスピレーションととっさの応用力、判断力も素晴らしい。まるで造形のインプロヴィゼーションとでに言うべきものだ。いつか、サグラダ・ファミリアが完成してくれればうれしいとふと思った。
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by inVox | 2007-05-02 23:58 | ■Human
初めて北京に行ってみた。市の北西部に位置する北京大学や精華大学の近くにホテルを取ったのだが、周りは高層のオフィスビルが建ち並び、シンガポールやアメリカの都市部と変わらぬ眺めだった。違うのは、そのビル群の隙間に小さなあばら家のような、長屋のような昔ながらの商店や食堂がひしめき合っている点だ。そのコントラストがあまりにも大きくて、2008年の北京オリンピックに向けた都市開発の波と取り残されていく庶民の差を強調している。
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一昔前の北京と言えば自転車の波が押し寄せる映像だったが、その自転車をそのまま自動車に置き換えてみれば、現在の北京の様子が想像できるかもしれない。市の中心部付近は慢性的な渋滞。殺人的なほどに突っ込んでくる車。一方で歩行者や自転車は「道は人のためのもの」と言わんばかりに信号や横断歩道はもちろん、自動車までも無視して道を渡ってくる。車は車で当然人のほうがよけるものと思って突っ込んでいく。最後はどちらかがぎりぎりのところで避けるか止まるかするのだが、見ているとどきどきしてしまう。

そんな中でも城のナンバープレートを付けたメルセデスやBMWが異様なクラクションを鳴らして追い抜いていくことがある。軍の車だ。この軍専用のクラクションを鳴らされると一般の青のナンバープレートを付けた車は問答無用で道を譲らなければならないのだそうだ。渋滞も何のその。

あいにくの大雨のため、故宮・紫禁城は見ることができなかったが、天安門前広場と門の内側少しを見てきた。とにかくでかい。門はもちろんだが、毛沢東の写真がでかかった。広場の中ほどには博物館くらいの大きさの毛沢東の墓所がある。まるでギリシアの神殿のようだ。すでに夏休みだったのだろうか、家族連れも多く、外国人もかなりの人影を見かけた。

e0006365_1161239.jpg曇り空の下、万里の長城にも行ってみた。最もふもとに近いところから見上げて、そのとんでもない斜面に人が上っていく姿を見て、あんな急傾斜を登るのか、とびっくり。さらに山の奥に入っていくと観光用の上り口がありそこから長城へと入ることができる。私はロープウェイで途中まで楽をさせてもらったが、深い霧が出てしまい、見下ろすと白い闇が口をあけていた。長城はここでもやはり急な傾斜が付いており、会談がある部分はまだしも単にのっぺりとした部分では結構踏ん張って上り下りしないとかなり危なっかしい。こんなところ敵は攻めてきたりしないよぉ、と思ってみたが、モンゴル帝国はまさにこの方角から北京へ入ったのではなかったか? それとも北京入りするときにはすでに戦闘はなく、楽な道を通っていったのだったか?
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by inVox | 2006-08-06 09:16 | ■Human
アネモネさんから無条件でバトンを渡されましたので、つい。

●Q1 無条件でトキメク○○な人を3人

・『どこか変』だと周囲から一目置かれている人。高校時代はわざわざ探していた。
・流行や周囲の人たちに迎合しない音楽を創り出している人。
・声のいい人。…あくまでも私の好みの声ですね。

●Q2 無条件で嫌いな○○を3つ(ジャンルはどんなものででも)

・無神経・無礼・無作法な人
・理解しようと努力する気のない人=考えることのできない人
・想像力のない人

●Q3 無条件でお金をかけられる○○を5つ

・好きな音楽
・好きな作家の本
・見たことのないおもしろそうな映画
・男女問わず好意を持っている相手への贈り物
・うちの猫

●Q4 無条件で好きな○○を3つ(どんなものでも‥)

・好きな音楽(聴くのも見るのも)
・映画(映画館でも、TVでも、DVDでも)
・好きな作家の本、おもしろそうな未読の本

●Q5 無条件でバトンを受け取らせる5人。

・ヤママケさん
・azu☆さん
・あーるぐれいさん
・she36さん
・ぱとさん

 結局、帰ってくるのはいつも「音楽」ってことですかねぇ。映画も本も音楽もじつは自分の中では音付きの映像として自分の中に蓄積されていくものなんですが、友人が呆れるほど同じアルバムを何度も聴いているのは、聴くたびに自分の中では違ったものになっているから。そうした音楽は、逆に10年も20年も聴いていなくても自分の中で再生できたりするものです。だから音質にこだわることもほとんどない。一番最初に感動したときに聴いていた音質が一番いいと思っています。
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by inVox | 2006-04-04 23:09 | ■Human
ものを考える、ということはなんだろう。と、ふと思う。考えると言われてすぐに思い浮かぶのは「ことば」だ。「考え」を表すのにも「言葉」が最も多く用いられる。しかし、考えること自体は言葉だけに限ったことではない。暑い夏のことを考えてみるときは暑さを言葉で考える人はまずいない。湿度の高い日本の夏を思い浮かべるときにはあのむっとした空気やべとつく肌触りを思い浮かべることもあるだろう。風のことを考えるには肌を刺激する風の感覚を思い浮かべるのではないか。音楽を考えるときには、音が頭の中で鳴り響いているのではないか?だとすると、言葉で考えを表すというときには、管理の制約がそもそものはじめから付いていることを了承していなければならないが、「考えなさい」と言われるとすぐに言葉だけで考えようとする人も多い。

言葉でものを考えようとする場合、頭の中でしゃべっている。その声が頭の中で聞こえるのだ。それを聴きながら、その内容を客体として(自分の外のものとして)批判しながら吟味検証する。そして、今度は書いてみる。書くという行為そのものが頭の中の声を「文字」にするという変換作業があるので、そこでもう一度検証される。書きながら、その文字を見る。見ることでその言葉をもう一度外部からの刺激として中に入れる。ここでも検証が行われる。そしてその「中に入れる」という作業は、目を通して「読む」ことに頼っているので、形としての文字を見るという視覚的な方法と、読むことの同義的に使われる範囲で「音」として聴くという聴覚的な方法の両方がほぼ同時に行われるということになる。

そうやって、二重三重に自分の中と外とを行き来させながら考えを形作っていっているはずなのだが、出てきた考えは、誰かに伝えようとすると、さらに「伝わる形」にすることが必要になってしまう。そしてその方法は、言葉や文字や音や形、あるいは触覚的なものだったり、味覚だったり、嗅覚だったりするのだが、「ことば(文字・声)」以外を「考え」だとみなさない人々もまた数多い。

「うた」を「言葉」だけで理解しようとする人も思いのほか多いのだということを痛感したことがある。知り合いが日本のパンクバンドを好きだと言い、ライブにもよく行き、CDもよく聞いているという。だけど、同じような音を出しているイギリスのバンドなどは全然聞かないという。なぜ?と尋ねると、「英語だから、歌詞の意味が分からない」との答え。話をしていると、どうやら「うた」ではなく、「歌詞の意味」だけを聞いているようなのだ。だから、メロディですら、無難でありさえすれば演奏やアレンジがどうだろうと全然気にならないようである。だったら歌詞カードだけ読んでろよ、と思うのだが、さすが音楽には力がある。「歌詞の意味」を印象的に刷り込むのは実はメロディを中心とした「うた」なのだ。そしてもうひとつは「声」。これらがアレンジや楽器構成、演奏力などと渾然一体となって生み出されるのが音楽の力だと思う。

とあるバレーボール選手のブログに、何とかのバンドの新曲は素晴らしい。私が言いたくても言葉にできなかったことをずばりと言ってくれている。とか、人の誕生日プレゼントにメッセージ・ブックを選んだら、自分の言いたいことが全部書いてあった、とあった。こうして自分で考えていくことを放棄していくのだなぁ、と思った。「代弁者」を見つけることは、見つけたとたんにその「代弁者」の言っていることが自分の考えであるかのように錯覚を引き起こし、その後自分では考えなくなっていくのだという危険性がある。言葉は恐ろしいもので、表現は難しい。言葉は多義的なものであり、似たような言葉を使った表現に出会うと、一瞬感動する(これが言いたかったんだ!と)のだが、同時に、そこに存在しているズレに対して目をつぶることになりかねない。一旦目をつぶってしまえば後は楽だ。水が低きに流れるがごとくにどんどん目をつぶり続けることになる。「自分で考えない」人間が生まれ、やがて「自分で考えることができない」人間になるのだ。1060年代以降に生まれた世代にはそういう傾向が都市を下るごとに強くなっていると思う。
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by inVox | 2005-10-09 16:25 | ■Human
面白いのは、普段の生活ではまともに人と話ができないような人がネット上では攻撃的なまでに饒舌になる傾向があるということだ。普段言いたいことがあっても言えない分過剰になるのだろうか。バランス感覚が悪すぎる。趣味の世界において、価値観は多様であるのは自明の理として周知徹底されているはずだと思っていたが、そうでもないらしい。自分の価値観こそが絶対で、それを認めない、あるいは同意しない奴はとんでもない馬鹿か悪人だ、と。あほらしいことこの上ない。音楽の世界でも、海賊盤や稀少盤を血眼になって収集しては「どうだ凄いだろう。凄いといえ!」と迫り来てはこちらが「凄いね」と言ってあげるまで開放してくれない人もいる。まぁそれもまた趣味の世界なのだから仕方がないのかもしれない。でも勘弁して欲しい。

一方で、世の中には徹底的に自分で責任を追うことを拒否する人がいる。責任を負わないことをまるで正義ででもあるかのように、正論であるかのように振り回す者までいる。たとえばどの本が「良い」とか、「悪い」とか、どの音楽が「良い」か、「悪い」か。そもそも「良い、悪い」で語ること自体愚の骨頂だ。自分の好みかどうか、というのが趣味の基本だろう。他の人にとっての「良い」音楽でも「嫌い」なものは「良くない」と普通は認識しているのではないだろうか。そのくせ、人がこれは凄い、とか良くないとか言うのを真に受けて自分の目や耳で確認せずに飛びつき、結果が自分の勝手な妄想と異なっているとその責任をコメントを出した人に押し付けている。自分の好みまで人に決めて欲しいのか? そういう人はもしかして人付き合いも下手だったり、学業や仕事の能力も低いのではないか? そして、そういった自分が招いた不幸の責任をすべて他人や環境のせいにして開き直っているのではないだろうか、とふと思う。

とまぁこんなことを少し考えさせられることが増えてきた。自分のもまたそういうようなことをしているのではないかという不安とともに。嫌な時代だ。
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by inVox | 2005-08-20 23:07 | ■Human