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鈴木生子 Clarinet recital series 2
「ピアノ、クラリネット、チェロのための・・・B&B」


・5月20日(金)19時開演
・淀橋教会小原記念チャペル(新大久保) 

 - クラリネット:鈴木生子
 - ピアノ   :浦壁信二
 - チェロ   :松本卓以

<演奏曲目>

 1. ピアノ、クラリネット、チェロのためのトリオ 作品 11(ベートーヴェン)
 2. ピアノ、クラリネット、チェロのためのトリオ 作品 114(ブラームス)
   ~ アンコール ~
 3. ハンガリー舞曲6番(ブラームス)
 4. 歌の調べの如くに 作品 105-1(ブラームス)


e0006365_12585310.jpg予告されていた演目は本編の2曲だけでしたが、アンコールに、やはりブラームスから、なんと2曲のプレゼント。大変良いコンサートでした。

正直に言って、ベートーヴェンもブラームスも、TVや映画でたまに耳にする程度でしか聞いたことがない私としては、もしかしたら退屈なクラシックなのかもしれないという不安もありました。以前NHK-FMでだったでしょうか、ブラームスの「ハンガリー舞曲」のオーケストラ版は聞いたことがありましたが、印象に残っているのはその1曲の、しかも一番派手なフレーズのパートのみ。やれやれ。

ところが、まずはベートーヴェン。これがまた分かりやすいコントラストの強い曲です。三つの楽器の対比もそうですし、メロディラインも華やか。一つ一つの楽器のラインを追うことが出来るほどの明快さ。いやぁ、新鮮な驚きでした。

一方のブラームス。ハーフトーンな感触がいい、という前説にあったとおり、非常にドラマティックでありながら、これといった派手な要素はなく、でもあっという間に曲の雰囲気に引き込まれてしまい、別世界へと意識が遊離していくような感覚でした。したがってベートーヴェンでは追えた各楽器のメロディがいつの間にか追えなくなっているのに何度も気付く始末。曲の力としてはこちらの方が格段に強かったのではないでしょうか。いや凄いぞブラームス。

そして、アンコールは短くまとめた(2曲とも浦壁氏の編曲)ブラームス。「ハンガリー舞曲」は確かにハンガリアンダンスが容易に連想されるリズムとテンポ。もう一曲は優雅に麗しく。今回のコンサートでの最大の収穫は、ブラームスがこんなに面白い作曲家だったというのを知りえたことかも。

鈴木生子さんは今回はバス・クラリネットはなし。クラリネット一本での勝負。チェロやピアノとの掛け合いなども素晴らしく、音的にきちんと拮抗した演奏をテンションを落とすことなく最後まで引っ張って行ってました。浦壁氏のピアノもさりげなく超絶技巧なフレーズを弾きこなし、アレンジも素晴らしく、もっと活動の幅を広げてポピュラー・ミュージックへも進出して欲しいものです。もう一つ、チェロの松本氏。彼の演奏はコンテンポラリーαでも見聞きしたことがあるはずなのですが、今回はとくに印象が強かった。いいミュージシャンです。音楽を創ろうという意欲がビシバシと伝わってきました。この三人でより自由な集団即興なんかをやっても面白そうです。
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by invox | 2011-05-24 12:59 | ■Music
「シュルレアリスム展」(国立新美術館)
―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―


すでに会期は終了したが、フランスの美術館の所蔵品から抽出された作品で構成された展示会だ。だから、そこには「フランス」が隠れている。展示された作品には多くのフランス外のアーティストの作品も多いのだけど...。もちろん、最初に意識して「シュルレアリスム」という言葉を用いたグループはフランスで活動していたのだけれど。展示会にはその有名なブルトンの「宣言」や文章が多数引用してあった。ひとつの運動として作品群をまとめて展示した形をおおよそ取ってはいたのだろう。最後の方ではその活動が終演した後の、そのジャンルの延長線上にあると括られがちな作品が展示の中心となっていたが。

全体をつらつらと見ていったのだけど、おおよそ時間軸に沿った展示方式が取られていた。最初の方は、どの作品を見ても、今となってはパッとしない印象を受けた。強く感じたのは、この時代は手法・技法が表現の求めるレベルに達していなかったのではないかということ。なので、多くの作品からは「もどかしさ」、「挫折感」を感じてしまった。本当はもっと表現したいものが高いレベルにあるのに、描いていくうちに、どんどん目標とのギャップばかりが意識され、しかし、これ以上手を加えることは、ますますそこから離れていってしまうことになるぎりぎりののところで「完成」させてしまった作品達、という印象だった。それはそれで、未完成の魅力というか、荒削りな魅力、もしくは「可能性」を感じさせる魅力という楽しみ方が出来る。もっとも、既に私達は、その後の時代に出てきたものですら「過去の作品」として「知って」いるので、何を目指していたのかというのが透けて見える場合もありうる。果たしてその時、そういった作品を見て、私はどう感じるのだろうか。

展示作品は、途中から手法・技法が表現衝動に追いついてきたなぁという印象に変わっていった。そうなってくると今度はアーティスト自身の持っているものが個々の作品の差として見えてくる。これは面白い。そうなってくると、見るほうとしても「好き、嫌い」でモノが語れるようになる。あるいは「自分に合う、合わない」で。そこに至って初めて自由な表現が出来ると言っても良いのかも知れない。

初期のシュルレアリスム作品は、現在のシュールとかシュールリアルという言葉の与えてくれるイメージとは裏腹に、執拗に「具体的な意味」をその作品の中に込めようとしているように見えた。自動書記という概念は言ってみれば「降りてきた」状態を指していたのかもしれない。作家であれば「言霊」と言えるが、美術ではよく「ミューズ/ムーサ」が降りてきたという言い回しがあったのではないだろうか。シュルレアリスムでは表現衝動それ自体が作品を自動的に定義している、その作品がどのような作品となるのかは表現衝動によって自動的に決まると考えたのかもしれない。それにしては、初期の作品は、ぐちゃぐちゃな中に意味を持たせるべき形象を無理やり入れ込んだような印象を受ける。つまり、印象を受けた/表現衝動の元となった具象を見る人が分かるようにしたかったのではないだろうかという印象なのだ。まじめだったんだなぁ。

途中2箇所で白黒の映画が上映されていた。2箇所とも、直角に交わる壁面を用いてそれぞれに違うフィルムを映し出していた。そのうちの一本は「アンダルシアの犬」だった。ということは、これらの作品はそれぞれ単独の作品であり、2つの作品を同時に映写してみるようには意図されていなかったのではないだろうか。どのような意図を以ってこのような上映方法を取ったのか少し気になった。

解説に拠れば、ブルトンが宣言を出した当初のシュルレアリスム運動とは「偶然性、夢、幻想、神話、共同性などを鍵に、人間の無意識の世界の探求をおこない、日常的な現実を超えた新しい美と真実を発見し、生の変革を実現しようと試みるもの」だったとか。デュシャンやダリ、マグリットといったアーティストの作品を見ると、既存のものを既存の用途とは異なる用い方を想起させるような配置や組合せ、形や色で、その存在と意味を切り離そうとしていたように見える。それが「無意識」をかき混ぜることになるかのように。本当にそうだろうか?と最近思うようになってきた。

出展作品のアーティストたちを挙げておこう。錚々たる顔ぶれだ。これまで知らなかったアーティストで今回気になったのは、ユディト・レーグルだろうか。

アーウィン・ブルーメンフェルド
アーシル・ゴーキー
アルベルト・ジャコメッティ
アンドレ・ブルトン
アンドレ・マッソン
イヴ・タンギー
インジヒ・ハイスラー
ヴィクトル・ブローネル
ヴィフレド・ラム
ウィルヘルム・フレッディ
エリ・ロタール
カミーユ・ゲーマンス
クロード・カーアン
サルバドール・ダリ
シモン・アンタイ
ジャクソン・ポロック
ジャック=アンドレ・ボワファール
ジャック・プレヴェール
ジャン・アルプ
ジャン・ドゥゴテクス
ジョアン・ミロ
ジョゼフ・コーネル
ジョセフ・シマ
ジョルジョ・デ・キリコ
ドラ・マール
ドロテア・タニング
パブロ・ピカソ
ハンス・ベルメール
ブラッサイ
フランシス・ピカビア
ヘルベルト・バイヤー
ポール・デルヴォー
マックス・エルンスト
マックス・モリーズ
マッタ
マヌエル・アルバレス・ブラボ
マリー・トワイヤン
マルセル・ジャン
マルセル・デュシャン
マン・レイ
ユディト・レーグル
ラウル・ユバック
リュシアン・ロレル
ルイス・ブニュエル
ルネ・クレール
ルネ・マグリット
ロバート・マザウェル
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by invox | 2011-05-22 22:39 | ■Arts
「闇の船」(Darkship Thieves)サラ・A・ホイト(著) 赤尾 秀子(訳)

e0006365_23585486.jpg久しぶりにジュブナイル的なSFを読んだ気がする。買ってから読み始めるまで気が付かなかったが、冒頭の献辞がハインラインに捧げられていた。訳者については良く知らなかったが、ハヤカワでのほかの訳書を見ると、SFと児童文学でいずれも少女達が主人公の作品を得意としているようだ。

で、感想。とても面白かった。直接的にイメージがハインラインのジュブナイルSFを想起させ、とりわけ「ポディの宇宙旅行」(今は「天翔る少女」か。これはごく最近、この同じ訳者で新訳版が出ている。以前の版はタイトルは違えど、中村能三 訳。私が読んだことがあるのはこちら)を連想させる。主人公の性格や家庭環境の設定がそうさせるのだろうか。そこに今風の科学技術的要素を取り入れたとでも言えばいいだろうか。ハイパー・バイオ・テクノロジーの成れの果てを扱ったダン・シモンズの「イリアム」シリーズよりはかなり単純な設定にしてあるが、結局科学技術の発展と人間の発展とのアンバランスを根底においた舞台設定。この辺もハインライン的だ。

ガジェット的な小物の名前などにハインライン作品からの引用があったりもして、ハインライン好きには結構楽しめる作品である。結構面白く読めた。他にも読んでみたいと思ったが、訳出されているのは現時点ではこれだけのようだし、他の多くの作品はSFではないようだ。

あぁ、本屋さんで「天翔ける少女」の新訳版を見つけてしまったので、買ってしまった。で、今読んでいるところ。
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by invox | 2011-05-13 00:02 | ■Books
「英国王のスピーチ(The King's Speech)」

イギリス映画で、しかも近現代史とは言え歴史の一コマを切り取った作品だというので興味があった。アカデミー賞を取ったというのも「アメリカ映画じゃないなのに」よく取ったな、というのが念頭にはあった。面白そうだ。

監督 トム・フーパー
出演 コリン・ファース、ヘレナ・ボナム=カーター、ジェフリー・ラッシュ
音楽 アレクサンドル・デプラ

王妃エリザベス役のへレナ・ボナム=カーターは、ティム・バートンの映画やTVドラマ「マーリン」でのモーガン・ル・フェイ役で印象に残っている。この映画でも脇役ながらその存在感は印象的だ。好きな女優さんの一人である。

国王ジョージ5世の御世、といってもすでに立憲君主制に移行した後のイギリス。第一次世界大戦も経験し、ヒトラーがまさにポーランドへ侵攻しようという第二次世界大戦前夜とでも言うべき時代なので、国王の出で立ちも現代風だ。ジョージ6世として知られる人物が実はアルバートという名前だったというのは初めて知った。家族の中では「バーティー」。また、アルバートという名前がイギリスでは「ドイツ風の」名前であるというのも初めて知った。一方でジョージはイギリス的な名前なんだとのこと。ジョージこそ「ゲオルグ」とかドイツっぽいイメージがあったんだけどなぁ。

まぁ、それはさておき、一方の主人公の言語障害治療者はライオネル・ローグ。オーストラリア人だという。元はイギリスの植民地(というより流刑地)だったためか、それだけで蔑みの目で見られているようだ。イギリス人の非イギリス人への蔑視傾向は根深いからなぁという実感とも合う。まぁそういうテーマの映画ではないとは思うので先へ進もう。

吃音は意識すればするほどひどくなる。なぜなら心因性のものだから、というのは今では常識となっているが、この時代にはまだその常識は通用しなかったようだ。しかし、国民の前でスピーチをしなければならない人物が吃音だと、想像も出来ないほど嫌だったに違いない。しかもスピーチは避けられないとなれば...。

コリン・ファースの素晴らしさは今更言うべきことではないだろうし、ジェフリー・ラッシュも素晴らしかった。しかし面白かったのは台詞だ。吃音を乗り越えるために罵詈雑言や悪態をうまく利用する。これがとても面白かった。実際にこのような言葉を使っていたのだとしたら、ジョージ6世はとても親しみやすい国王だったに違いない。そう思わせるに十分な「庶民」ぶりだった。
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by invox | 2011-05-09 21:56 | ■Cinema/Movie