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Out of My Book

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Official inVox Blog; Watched, Read and Listened in my real life.

「名前」のもつ力が恐ろしい。いや、物事に名前を付ける行為が人に及ぼす影響が恐ろしいと言った方が良いかもしれない。

多くの人たちに実感してもらえると思うのだが、例えば、何やら暗闇の中でうごめく正体不明のものを「恐ろしい」と感じるのは、それが正体不明だから。奇態な行動をしている人を怖いと思うのはそれが見ず知らずの人だから。そう、被とは自分が「知らない」ものごとを恐ろしいと思う傾向が強い。でも、いったん、それらの対象となっているものに名前を付けてしまうと、それは途端になんだかよく分からないままであっても「とりあえず(その名前を)知っているもの」に変化して、ひとまず安心することが多い。例えば、暗闇の中でうごめいているものが実は「犬」だったり、そこに生えている柳の木だと「分かってしまえば」と端に怖さが減じる。あるいは、奇態な行動をしている人が「前衛舞踏家」だと知ってしまえば怖さが減じるどころか興味が湧く。

音楽や絵画、その他の造形芸術など、訳が分からないものは「気持ち悪い」とか「分からない」などと言われ敬遠されることが多いが、それらにいったん「ジャズ」とか「抽象画」などの「カテゴリー/ジャンルの名前」が与えられると、「そういうもの」だからと接する側はニュートラルになる。もしくは、「ジョン・ケージ」とか「ミロ」といった「すでに知っている名前」が冠されると、もっと「分かった」ように感じて安心する。特に「聞いたことのある人の名前」が付いたものに対して、人は無防備になりがちだと思う。

だからこそ、自分が初めて接するものに対して、拙速にその「名前」を知ろうとしてはいけないのではないかと思っている。自分が自分自身でそのものを知る前に「名前」を知ろうとすることは、それを知ろうとすることを放棄するに等しい。あるいは、誰にとっても未知のものに簡単に名前を付けることは、それを広く知らしめるためには必要なことだが、同時にそのものが理解されることを阻害する行為になる危険性が高い。それでも名前を付けなければ、不特定のより多くの人々に素早く知ってもらうことは不可能に近い。そして、名前を知らないものに対する反応で最も怖いものは、徹底した攻撃である。つまり、「知らないものは、存在すべきではない」という感情的な反応が、そのものを破壊・殲滅・消滅させようとする過剰な反応である。

もちろん、名前に惹かれて未知のものと出会う、ということもあるだろうが、その場合は実はその名前をすでに聞き知っている場合に限られる。あるいは、それは単にその「名前」の音の響きが、すでに知っているものの記憶を刺激して興味を抱かせるのかもしれない。食わず嫌い、聴かず嫌い、読まず嫌いなどは、その裏返しだろう。人はそれらを意識的にも、無意識の内にも日常的に行っている。そういった反応をさせるもっとも大きなトリガーの一つが名前なのだと思う。

以前、友人と何かの議論をしたときに、友人は「お前レッテルを張ってるだろう」と言ってきたことがあるが、私は「いや、名前の付いた箱の中に、その人物が行った行為をどんどん追加していっているだけだ」と答えたことがある。友人は、どうやら私が「この人はこういうことをする人だ」と「決めつけている」と勘違いしたらしい。事実は「この人は、かつてこういうことをした」という事実の記録が蓄積されているだけにすぎず、そこから「この人はこういうことをする人だ」という推測や断定は行っていなかったのだが、外から見ているとその違いは分からなかったらしい。私は、その対象となっている人がどのようなことしようが、別に驚くことはなく、単に「その人がそういうことをした」という事実を記憶に付け加えていただけなのだ。なので、すべてが「想定外」でも「想定の範囲内」でもないのだ。もちろん必要が生じれば、それらの蓄積を分析し、予測することはある。しかし、必要がなければ、それらは単なる記録にすぎない。


余談だが、事象や事物を説明するのに『だって「○○」は「○○」だろ』としか言えない人は、基本的には莫迦である。もちろん、特定の範囲で人並み優れた才能を持っていることはあるが、所謂一般的な理解力やコミュニケーションの能力においてはきわめて低能である。なぜなら、その「○○」を自分がきちんと理解できていないということを人々に対して曝け出しているということすら分かっていないことを自ら披露している。その人が分かっているのは、それが「○○」という名前である、ということ程度でしかない、ということだ。それでも説明を求めた場合、こういう人たちはどんどん逆切れしていくからますます始末に悪い。そういう人たちには、仕事であれば、全体の流れに影響を与えるような重要なポイントからは外しておくに限るし、プライベートであれば、可能な範囲であまり付合いたくはないものだ。

歴史を眺めてみれば、人や出来事に対して、名前を付けることで、それらを自分の都合の良いように利用してきた権力者たちは大勢いるし、現代であれば、マス・メディアを同じように利用している狡賢い人たちはたくさんいる。名前を所謂名前と限定せずに「レッテルを張る」という時の「レッテル」や、ジャンル、カテゴリー、「何々な人」などの表現も含めて考えれば、それがいかに多いかは実感できるだろう。
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# by invox | 2011-11-25 11:12 | ■Human
「インモータルズ―神々の戦い―」(IMMORTALS)

監督:ターセム・シン
出演:ヘンリー・カヴィル、フリーダ・ピント、スティーヴン・ドーフ、ルーク・エヴァンス、イザベル・ルーカス、ケラン・ラッツ、ジョセフ・モーガ、ジョン・ハート、ミッキー・ローク

ギリシア神話ではおなじみの名前であるテセウスやハイペリオンが中心となった物語だが、この設定はオリジナルなのか? ギリシア神話にこういう話を見た記憶がない。予告編とは印象が違い、なかなかシリアスなストーリー展開が中心。このへんは「300」とも共通する、この監督の趣向なのだろう。それにしてもギリシア神話に登場する山ほどいる神様たちがここではほんの4,5人しか出てこない。しかも最初の方で「神々は死なないが、他の神々によって殺されることは可能だ」という設定が面白い。また、タイタン族、あるいはティターン族と呼ばれている者たちも、本を質せば「神々」と同じであり、ただ単に「負けた側」の一族郎党であるにすぎない、という設定も面白い。CGは「300」同様にちゃちなものに見えるように作られている。このわざとらしさが味になっていると言えるだろう。いや面白かった。とても楽しめるB級映画だと思う。

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# by invox | 2011-11-24 23:15 | ■Cinema/Movie
「ヒュペルボレオス極北神怪譚」
クラーク・アシュトン・スミス(著)、大瀧啓裕(訳)


PHの日本公演で中断したこともあって、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。スミスの短編集だが、テーマが共通している作品はまるで歴史の一部を見ているかのようなリアリティで異様な世界が淡々と展開している。誇張なし、スリルなし、アクションなしなのだが、現実的、あまりにも現実的なのだ。もちろん、設定や話自体は荒唐無稽極まりないのだが、語り口ゆえに、それがまったくの事実であるかのように思える。文字として書かれている部分だけを創作したのではなく、その物語の世界とそれを取り巻くより大きな時空がそこにあって、そこから一つのお話を抜き出してきた、そういう印象だ。好きだなぁ。

ヒュペルボレオス
 「ヒュペルボレオスのムーサ」
 「七つの呪い」
 「アウースル・ウトックアンの不運」
 「アタムマウスの遺書」
e0006365_17493030.jpg 「白蛆の襲来」
 「土星への扉」
 「皓白の巫女」
 「氷の魔物」
 「サタムプラ・ゼイロスの話」
 「三十九の飾帯盗み」
 「ウッボ=サトゥラ」

アトランティス
 「最後の呪文」
 「マリュグリスの死」
 「二重の影」
 「スファノモエーへの旅」
 「アトランティスの美酒」
 
幻夢郷綺譚
 「始原の都市」
 「月への供物」
 「地図にない島」
 「歌う炎の都市」
 「マルネアンでの一夜」
 「サダストル」
 「柳のある山水画」

やはり、一番強い印象を与えてくれたのは「ヒュペルポレオス」の連作か。作品数が多いというのもあるのだろうが、世界の広がりが感じられる。「アトランティス」も悪くはないのだが、作品数が少ないので、アトランティス世界がいったいどういう世界なのか、結局分からずじまいなのだ。ちょっともったいない気がする。最後の「幻想郷奇譚」は、まとまりはないが、それぞれが秀逸な短編なので、それなりに印象に残っている。短いTV番組にしてもよさそうなものばかりだ。
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# by invox | 2011-10-19 17:49 | ■Books
「闇の王国」("Other Kingdoms")
リチャード・マシスン(著)、 尾之上 浩司(訳)


私の読むマシスンの長編としては2冊目となる。「アースバウンド」にせよ、これにせよ、とにかく引っかかるタイトルをつけてくれるものだ。素通りできる訳ないだろ!と思いながらもやはり読んでしまうなぁ。

現代の、というには、すでに「昔」としか思えない第一次世界大戦期のイギリスが主たる舞台。主人公がアメリカ人であるせいか、イギリス臭さはほとんど感じない。むしろ、アメリカ人の見たイギリスってこんなんなんだ、という印象だ。「妖精」の捉え方もイギリスの作品に多く見られるものとは若干異なっているように思えた。

e0006365_13334452.jpgタイトルによる先入観、特に「闇の」と付けられたことによる弊害は大きかった。なので、最後までタイトルからの印象と実際の本の中身との印象のギャップに、違和感が離れなかったのだ。受けのいい言葉なので「闇の」としたのだろうが、出版社の安易な発想だ。もちろん、じゃあどんなタイトルがいいのか?と問われても、「other」の直訳的な言葉にはもっと違和感がある。敢えて言い換えてみるならば「別の王国」くらいが関の山だ。これでは売れないだろうな。内容的な連想からは、「闇の」というよりは「影の」とか「もう一つの」という方がしっくりくるかもしれない。まぁ難しいことこの上ない。

宣伝文句にあるような怖い話でないことは確かだ。もちろん、「人間性」の恐ろしさに背筋がぞぞっとするような内容ではあるが、全体を通して読み終わってみると、むしろ「切なさ」に身を貫かれるような「痛み」を感じる。

そうこうしている間に、書店には「リアル・スティール」が平積みされている。こちらは映画化決定という派手な帯が付けられていて、その派手さ加減にうんざりさせられるが、気を取り直して購入するとしよう。映画を先に見た方が、原作を先に読むより好きなので、実際に読むのはまだ先になりそうだ。だって、映画を見てがっかりしたくないだろう?
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# by invox | 2011-10-19 13:33 | ■Books
「モーリス・ドニ展」損保ジャパン美術館

ピーター・ハミル来日公演の合間に、同じくPH公演を見に来たお二方と見に行った。これまであまり強い印象はなかった画家だが、単独での展覧会は初めてだった。油絵とは思えない色使いやタッチが強く印象に残った。写実的な描写を敢えてぼかした様な人物の顔が特に印象的だった。

絵のテーマとなっているのはほとんどが子供、もしくは子供とその母親、姉妹といった感じで女性がほとんどだったように思う。途中に家系図も出ていたが、二人の奥さんとの間に、とても大きな家族を生み出している。絵画には孫まで登場するので、身の回りには常に子供たちがいたのではないだろうか。というか、そういう状態になるように努力したのではないだろうか。あきれるほどの子供好きが作品に現れている。

ほとんどの作品で見られる顔のぼかしだが、これはどういう意図があったのだろうか。もちろん、印象派的な手法だと言えるが、顔を精緻に描くことが下手だったわけではないようだ。ぼかされたその下にはとてつもなく写実的な描写が見て取れるからだ。ドニにとっては、もしかすると「個人」は必要なかったのかもしれない。「こども」がいれば、それが「だれか」というのはあまり問題にならなかったのではないだろうか。ましてや大人は、誰であろうが関係なかったのではないだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。
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# by invox | 2011-10-10 15:52 | ■Arts
学生時代からの知り合いが亡くなった。土曜日の彼のmixiへの書き込みを読んだばかりだというのに、もう彼はいないのだという実感は、湧きようもないが、訃報連絡がまわってきたりすると、あぁ本当なんだなとぼんやりと、呆けた様になってしまう。



あっちの世界、向こう側、この世ならぬもの、常軌を逸した人や物事と出遭った時に、こういう言葉を使うことがある。あるいは自分自身のありようを説明しようとした時に、頭だけがこちら側に出てはいるが、体のほとんどは向こう側にあるような気がする、などと言ってしまう。そう、自分がいつ、本当にすべてあちら側に行ってしまうのか判らない、という恐怖は身近なものとして常にある。そうならないように、自分自身をこちら側に繋ぎとめているのは、理性であったり、音楽であったり、人であったりする(その中で一番頼りないのが理性。それはもっとも理に適った理解の仕方だと頭の中でささやいているのが理性。それを疑っているのも理性だ)。


自分というものが時間的に空間的にどのように「存在」しているのかを考えていくと、結局「存在」していないことが証明されそうな気がする。時間も空間も根源的に同じものであるという理解をしているからかもしれないが、そういった「時空間」とでも呼ぶべき世界の「内側」にあって、常に移動しているのが「存在」であり、それは時間的にも空間的にも決して同一の固定された状態を持たないものであるが故に、それを一般的な理解における確固たる「存在」とは言えないのではないか、と思うのである。ただ、自分が安心するためだけに、仮に存在していると想定しているだけに過ぎず、そうすることによって、理解しやすいものだけを理解しているのではないか。

何ものも、同じ瞬間に異なる空間を占めることはできないし、また、空間は固定されていないが故に、同じ空間を異なる瞬間に占めることはできない。これは出来るように見えるのは、「同じ空間」が実は同じではないことを無視しているからに過ぎない。と、私的に思う。物理学者がどう言っているのかは知らないが。

だから、空間に、人間が認識できるだけで3つの次元があるとすれば、時間にも同様に少なくとも3つの次元があって何ら不思議ではない。仮にX軸、Y軸、Z軸があるとしたら、自分がいる、と信じている「今、ここ」の座標は時間的にも空間的にも[+、+、+]であると前提条件をおき、あちら側の世界を、どの軸かが「-」になっているものと考えると、実に自然なことに見えるのだ。そういう越境行為が起きるためには何が必要なのか、一般的に「死」と呼ばれることなのか、それ以外にも何かがあるのか、よく分からない。

あるいは、よく言われるように、空間にも時間にも4次元とか、5次元とか、さらに上位の次元があるとした場合、それらをどのように表現すればよいのか私にはよく分からない。一般的に、空間の概念においてある事象の[対称]を求めるには、その一つ上の次元を用いなければならないと言われていると聞いたことがある。2次元のもの(例えば「面」)の対称を求めるにはそれを3次元の概念の中で捉えなければならない(つまり、その「面」から離れたところに点なり線がないと対称となる「面」が存在し得ないということ)とか。であれば、人間が現在認識している三次元の対称となるものは4次元の概念のうちにおいて考える必要があるのだが、それが一体どういうものであるのかは三次元という制約の中にある人間の認識力や思考力ではそもそも考えることが出来ないのではないか?という恐怖もある。

そうしたときに、ふと、先述のように「いや、待てよ、4次元だ5次元だと言う前に、そもそも三次元における各軸のマイナス象限について、あまりにも知らないのではないか。知らないが故に、単純に無視してしまっているだけなのではないか」ということを考えてしまうのだ。空間における「負」の概念については、いろいろな研究があると思うし、実際「反物質」などのような手がかりになりそうな概念もある。だが、時間についてはそもそも時間に三つの軸があるという考え方自体、自分以外でそんなことを考えている人がいるのかさえ知らない。私的には時間のマイナス象限は、今の常識から行くと、時間が逆行・遡行する方向に流れる、というものではないような気がしている。もちろん、三つの軸が全てマイナスであれば、そうなるのかもしれないが。


こういったことを、もう30年以上も思ってきている。



彼は、どこへ行ったのだろうか。
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# by invox | 2011-09-13 16:09 | ■Human
 Farmers Market Live in Japan 2011
 月見ル君思フ(青山、東京) 2011年9月5日(月)

いや、実に久しぶりな感じだ。前回はいつだったのか良く覚えていないが、「サーフィンUSSR」が出ていたような気がするので2008年以降だったと思う。だが、だが、だが。今回のファーマーズは一味も二味も違った。メンバーは不動の5人。

スティアン・カシュテンセン(Stian Carstensen)(accordion, electric guitar, pedal-steel guitar, kaval, ocarina)は、すっかりはげ親父になっていた(遠くから見たらトゥリフォンと見分けがつきにくいほどだ)が、すっかりベテランの外観とは裏腹に、やることは以前よりもさらにパワー・アップした超絶技巧の楽器演奏と無茶苦茶ぶり。オカリナの演奏には完全にやられてしまった。でたらめな歌もしゃべりも最高!

ニルスオラフ・ヨハンセン(Nils-Olav Johansen)(guitar, vocals)は、スティアンと対を成すエンターテイメントを演出。音楽面でもしっかりと枠組みを構築しつつも脱力するというとんでもないことを両立している。彼の歌をもう少し聴きたかったなぁ。立ち位置をほとんど変えずに体を激しく動かすこともないのだが、顔芸だけでも楽しませてくれる。ギターの腕前は凄いのだが、それを見せ付けるようなロック・スターみたいなことは一切しないのがまた彼らしい。

フィン・グットォルムセン(Finn Guttormsen)(5-strings bass-guitar)は、以前は普通の4弦ベースを弾いていたように思うが、勘違いだろうか?>今回は5弦ベース。見た感じは全くノリの悪い演奏スタイル(ほとんど不動)なのだが、出てくる音は素晴らしい。あの狂ったように変化するリズムやテンポでよく演奏できるものだと毎回感心してしまう。このどっしりとしたベースの屋台骨が船の竜骨のようにバンドを支えていると言ってもいいだろう。

ヤーレ・ヴェスぺシュタ(Jarle Vespestad)(drums)は、すさまじい。良くあんなドラムスを叩けるものだ。破壊力も疾走感も、ノリも最高。単純な曲が一個もないのに全くリズムが崩れないのは彼とフィンのおかげだ。フィンガ竜骨なら、ヤーレは船体そのものかもしれない。また、彼はバンドの中でもっとも普通に笑ったりして、一番親しみやすいキャラクターだ。バンドのはげ三人衆のうち、スキンヘッドなのはヤーレだけなのだが、普通なら強面になりそうなところをその人懐こい笑顔で人気が高い。実際イケメンだ。

トゥリフォン・トゥリフォノフ(Trifon Trifonov)(alto-sax)は、初来日の時からすっかりお友達になってしまった。最年長で唯一ノルウェー人ではなくブルガリア人なのだが、ファーマーズの音楽はトゥリフォンの持ち込んだブルガリア音楽がベースになっているというのも面白い。聴き様によっては、スティアンのアコーディオン演奏などはトゥリフォンのサックスを真似するところからスタートしたのではないか、とすら思える。バンドがどんなにどたばたをやっていても、一人ステージの片隅で淡々と演奏したり、居眠りしたり、疲れたように座っていたりと、見ていて全然飽きない。その存在自体が面白い。今回、これまで機会がなかった彼のソロ・アルバム(ブルガリアの伝統的な結婚式の音楽集)へのサインもやっともらえたが、話をするにはあまりに時間がなさ過ぎた。だってファーマーズは演奏を終わらせるつもりがないのでは、と思えるくらい延々と演奏し続けるんだもの。

今回は、専属エンジニアとしてStig Aron Kamonenを帯同してきていた。そのおかげかどうかは分からないが、これまで見た中でも最も音の迫力があった。もうほとんどロック・コンサートである。10年前、お台場メディアージュにあったライブ・レストラン「トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション」(通称TLG)で初めて見た時にも凄く驚かされたが、今回は、すでにバンドをよく知っているにもかかわらず、さらに驚かされてしまった。これは凄い。

2008年の4枚目のアルバム「サーフィンUSSR」以降、作品を発表していないが、そろそろ何か出して欲しいと思っているのは私だけではないだろう? 会場の月見ルが満員なのを見た観客の一人が感心しているのに対して、「ここまで来るのに10年かかった」という主催者の言葉がしみじみと胸を打った。たしかに10年前のTLGでの観客はもっと少なかったが、でも、その分、当時2枚のアルバムしか出ていなかったファーマーズを見に来るだけに、とても熱心なファンが多かったのも事実である。
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# by invox | 2011-09-08 10:43 | ■Music
デヴィッド・ジャクソン(David Jackson)から、11月の頭に日本へいけるかもしれない、という話を聞いたのは、8月11日のことだった。イギリスの暴動のニュースを聞いて安否を尋ねたときのことだった。オザンナと共に再来日出来るようだ、ということで大変嬉しい驚きだった。

そして、先日、正式に発表されたイタリアン・ロック・フェスティヴァル2011でオザンナが再び来日するというニュース。しかし、その公式ページでのメンバーの中にデヴィッドの名前はなかった。
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デヴィッドへ、「正式に発表されたけど」と、このニュースを伝えたところ、その数日後にオザンナのリノ・ヴァイレッティからデヴィッドに対して正式な情報として今回、日本とイタリアのプロモータが、イタリアに拘っていて、イタリア人でないゲストの参加は許されないことになったということで、残念だが、デヴィッドは日本に来ないことがはっきりしたのだった。リノが最初にデヴィッドに演奏を頼んだときには、リノはこの条件を知らなかったとのことで、全くリノの手落ちではないのだけどね、と言っていた。

今回予定されているオザンナとオーケストラの共演での「ミラノ・カリヴロ9」については、これまでのオザンナとの演奏の中で一部の曲を演奏して知ってはいるが、アルバムをフルでは聞いたことがないとのこと。どうやらイギリスではCDを見つけるのが難しいようだ。なので、YouTubeで探していくつか見つかったので、それを聞いてみたのだそうだ。その途中で、オザンナのエリオ・ダナがソプラノとテナーの2本のサックスを演奏するようになったのは、VdGGがイタリアでチャートのトップに立った頃に、デヴィッドがイタリアで演奏するのを見た後に他のメンバーに説得されたからだ、という話を見つけた!と嬉しそうに書いていた。エリオは現在religious retreat(信仰上の修養会)を運営しているのではないか、とのことで、もはや演奏はしていないはずだと。デヴィッドは、一体誰がこれらの重要なフルートのパートを演奏するのだろうか、多分オーケストラの誰かだな!と言っている。

いずれにせよ、最終的に、今年は日本へ行くことはないだろう。来年はどうかな?という言葉と共に、最後にデヴィッドは、それらのコンサートを私のために楽しんでくれと言っていた。いい人だ。

それにしても、アルティ・エ・メスティエリだった、今年、デヴィッド・クロスをゲストに迎えてアルバムを録音しているから、日本公演にはデヴィッド・クロスをゲストに迎えたかったのではないだろうか。だって、最新アルバムからの曲をやりたいのがアーティストっていうものだろう? デヴィッド・クロスにも話を聞いてみたいものだ。
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# by invox | 2011-09-02 12:39 | ■Music
過去何度か来日公演を果たしていて、その親しみやすい音楽で日本でもファンが多い、フィンランドのアーティスト、パウリーナ・レルヒェ(Pauliina Lerche)さんから、うれしい知らせが届けられた。久々の新作アルバムがこの秋には発売されるらしい。しかもワールド・ワイドのディストリビューションをユニバーサル・レコードが手がけるようだ。

パウリーナは3月の震災のことを心配してくれていたので、時折メールのやり取りをしていたが、夏は、夏休み!ということで、避暑地へとバカンスに1ヶ月ほど出かけていたらしい。ようやく休みから戻ってきたばかりで、早速知らせてきてくれた、というわけだ。

新作は「アラウンド・ザ・ワールド(Around the World)」というタイトルになるとのこと。パウリーナによれば、日本や中国を含めて世界各地の民話・御伽噺や音楽的な特徴を取り入れたオリジナル作品集とおこと。発売予定日は10月5日ということで、大変楽しみな一枚だ。

また、フィンランド国内ではパウリーナと妹のハンナマリのユニットであるミミ(ット)(MIMMIT)をメインとしたテレビ番組が9月4日からスタートするようだ。こちらはおもに子供たちを対象とした番組のようだ。ちなみに去年までにも何度か特別番組としてテレビ放送されたものがあり、フィンランドの小さな子供たちの間ではかなりの人気者らしい。

"Panda" (新作「Around the World」から)

MIMMIT(ミミ)公式ホームページ

e0006365_18184887.jpgこちらはパウリーナとハンナマリだけが出てくるMimmitのプロモーション・ビデオだ。楽曲は前作の「ハッツ・ハッツ・ハラカイネン」というアルバムからのもの。アルバムの全10曲中、なんと5曲分だ。

- "Tanssi Poika"
- "Pakkasherra"
- "Hauen Sanalla"
- "Tana Iltan" (Tanaのaはふたつとも上に点二つが付くa)
- "Hats, Hats Harakkainen"

あぁ、久しぶりに彼女たちのステージを見たくなった。
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# by invox | 2011-08-20 18:19 | ■Music
さて、ギリシアのフルート奏者ステリオス・ロマリアディス( Stelios Romaliadis)率いるプロジェクト集団Luupが新作を発表しました。前作に引き続き、デヴィッド・ジャクソン(David Jackson)が1曲にサックスで参加しています。


"MEADOW RITUALS" by Luup (released on May 17 2011)
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  1. Horse Heart
  2. Taurokathapsia
  3. Cream Sky
  4. Spiraling
  5. Roots Growth  ***David Jackson参加曲
  6. See You In Me
  7. Ritual of Apollo & Dionysus
  8. Northern Lights


すでに発売になっているようなので、何とか入手したいと思います。サイトにはサンプルとして何曲かをつなぎ合わせたものが聞けるようになっています。
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# by invox | 2011-07-26 22:56 | ■Music