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Out of My Book

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Official inVox Blog; Watched, Read and Listened in my real life.

「コンテイジョン」(2011年、アメリカ)

監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:マット・デイモン、ケイト・ウィンスレット、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ

「コンテイジョン」 (2011) Sソダーバーグ_e0006365_9561162.jpgこれは当初、見るつもりのない作品だった。だって、こんなに豪華なキャスティングのハリウッド映画なんて、どうせ盛り上がりをどぎつく押し付けてくる演出で、あまり中身のないものだから、テレビで見れば十分だろう? と思っていたのだが...、しかし、監督がソダーバーグだということで、まぁ時間もあるし、見てみようかという気になったのだ。

ハリウッド的な「これでもか」演出は割と抑えられていて、それなりにドキュメンタリー的な手法も効果的に使われていた。人間ドラマに主眼を置けば、それなりにドラマチックな作品にもできたはずだから、これは大いに評価できる。人々の恐怖とパニックと当局の立場で戦わざるを得ない人たちがバランスよく描かれていると言ってもいいかもしれない。まぁ、役者さんたちもうまい人たちだし、演出も渋め。ヒットはしないかもしれないが、悪くない作品だと思った。
# by invox | 2011-11-29 09:56 | ■Cinema/Movie
「ウィリアム・ブレイク版画展」国立西洋美術館

「ウィリアム・ブレイク版画展」  国立西洋美術館_e0006365_10174723.jpg常設展(中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画とフランス近代彫刻)の後半で、常設展の順路とは独立した展示ルームで同時開催されていたのがウィリアム・ブレイクの版画展。これまで様々な書籍の中の写真でしか見たことがなかったブレイクの版画を実際に見ることができるとは思っていなかったので、これ見たさに常設展も全部見たのだ。

展示の中心だったのは「ヨブ記」。そして数は少なかったがダンテの「神曲」からの挿絵版画である。それに加えて、展示スペースの最後にはブレイクが影響を受けたとされる版画作家の作品が展示されていた。なるほど、確かに影響を見て取れる。

「ウィリアム・ブレイク版画展」  国立西洋美術館_e0006365_1018913.jpg「ヨブ記」では、これまで持っていた印象よりも、ずいぶんと「正統派」を意識した作品だったように思う。それは「挿絵版画家」を生業としようと出版社への売り込みをかけていた時期の作品だったせいなのか、もともとお手本としたものからの影響が強く出ているだけなのか、「神曲」でのような迫力はあまり感じられなかったが、その分、丁寧に作りこまれているように思えた。やはり、ブレイクの版画は大したものである。
# by invox | 2011-11-28 10:18 | ■Arts
「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」国立西洋美術館

以前見た映画「宮廷画家ゴヤは見た」でゴヤという画家に興味を覚えた。今回の展示会は、その興味が失せる前で、とてもタイミングが良かった。

「着衣のマハ」「裸のマハ」が並んでいた。「マハ」というのが当時の流行に乗っかった、下町で自立して小粋に暮らしていた若い女性の総称であったというのは今回初めて知った。ちなみに男性の場合はマホと言っていたらしい。

ゴヤ展  国立西洋美術館_e0006365_10214890.jpg展示されていた作品数は多く、それぞれ見ごたえのあるものも多かった。友人とやりとりされた書簡の一部も紹介されていたが、宮廷画家として人気絶頂だったころのものは、若者特有の「鼻持ちならない自慢」があったりして微笑ましかった。ナポレオンによる征服とそれに続くスペインの内乱の時代を生きたゴヤだけに、様々な作品が強烈にそれを反映している。オーソドックスな構図/描写の典雅なものから怖気をふるいたくなるものまで。一見の価値はあるだろう。
# by invox | 2011-11-27 23:05 | ■Arts
「名前」のもつ力が恐ろしい。いや、物事に名前を付ける行為が人に及ぼす影響が恐ろしいと言った方が良いかもしれない。

多くの人たちに実感してもらえると思うのだが、例えば、何やら暗闇の中でうごめく正体不明のものを「恐ろしい」と感じるのは、それが正体不明だから。奇態な行動をしている人を怖いと思うのはそれが見ず知らずの人だから。そう、被とは自分が「知らない」ものごとを恐ろしいと思う傾向が強い。でも、いったん、それらの対象となっているものに名前を付けてしまうと、それは途端になんだかよく分からないままであっても「とりあえず(その名前を)知っているもの」に変化して、ひとまず安心することが多い。例えば、暗闇の中でうごめいているものが実は「犬」だったり、そこに生えている柳の木だと「分かってしまえば」と端に怖さが減じる。あるいは、奇態な行動をしている人が「前衛舞踏家」だと知ってしまえば怖さが減じるどころか興味が湧く。

音楽や絵画、その他の造形芸術など、訳が分からないものは「気持ち悪い」とか「分からない」などと言われ敬遠されることが多いが、それらにいったん「ジャズ」とか「抽象画」などの「カテゴリー/ジャンルの名前」が与えられると、「そういうもの」だからと接する側はニュートラルになる。もしくは、「ジョン・ケージ」とか「ミロ」といった「すでに知っている名前」が冠されると、もっと「分かった」ように感じて安心する。特に「聞いたことのある人の名前」が付いたものに対して、人は無防備になりがちだと思う。

だからこそ、自分が初めて接するものに対して、拙速にその「名前」を知ろうとしてはいけないのではないかと思っている。自分が自分自身でそのものを知る前に「名前」を知ろうとすることは、それを知ろうとすることを放棄するに等しい。あるいは、誰にとっても未知のものに簡単に名前を付けることは、それを広く知らしめるためには必要なことだが、同時にそのものが理解されることを阻害する行為になる危険性が高い。それでも名前を付けなければ、不特定のより多くの人々に素早く知ってもらうことは不可能に近い。そして、名前を知らないものに対する反応で最も怖いものは、徹底した攻撃である。つまり、「知らないものは、存在すべきではない」という感情的な反応が、そのものを破壊・殲滅・消滅させようとする過剰な反応である。

もちろん、名前に惹かれて未知のものと出会う、ということもあるだろうが、その場合は実はその名前をすでに聞き知っている場合に限られる。あるいは、それは単にその「名前」の音の響きが、すでに知っているものの記憶を刺激して興味を抱かせるのかもしれない。食わず嫌い、聴かず嫌い、読まず嫌いなどは、その裏返しだろう。人はそれらを意識的にも、無意識の内にも日常的に行っている。そういった反応をさせるもっとも大きなトリガーの一つが名前なのだと思う。

以前、友人と何かの議論をしたときに、友人は「お前レッテルを張ってるだろう」と言ってきたことがあるが、私は「いや、名前の付いた箱の中に、その人物が行った行為をどんどん追加していっているだけだ」と答えたことがある。友人は、どうやら私が「この人はこういうことをする人だ」と「決めつけている」と勘違いしたらしい。事実は「この人は、かつてこういうことをした」という事実の記録が蓄積されているだけにすぎず、そこから「この人はこういうことをする人だ」という推測や断定は行っていなかったのだが、外から見ているとその違いは分からなかったらしい。私は、その対象となっている人がどのようなことしようが、別に驚くことはなく、単に「その人がそういうことをした」という事実を記憶に付け加えていただけなのだ。なので、すべてが「想定外」でも「想定の範囲内」でもないのだ。もちろん必要が生じれば、それらの蓄積を分析し、予測することはある。しかし、必要がなければ、それらは単なる記録にすぎない。


余談だが、事象や事物を説明するのに『だって「○○」は「○○」だろ』としか言えない人は、基本的には莫迦である。もちろん、特定の範囲で人並み優れた才能を持っていることはあるが、所謂一般的な理解力やコミュニケーションの能力においてはきわめて低能である。なぜなら、その「○○」を自分がきちんと理解できていないということを人々に対して曝け出しているということすら分かっていないことを自ら披露している。その人が分かっているのは、それが「○○」という名前である、ということ程度でしかない、ということだ。それでも説明を求めた場合、こういう人たちはどんどん逆切れしていくからますます始末に悪い。そういう人たちには、仕事であれば、全体の流れに影響を与えるような重要なポイントからは外しておくに限るし、プライベートであれば、可能な範囲であまり付合いたくはないものだ。

歴史を眺めてみれば、人や出来事に対して、名前を付けることで、それらを自分の都合の良いように利用してきた権力者たちは大勢いるし、現代であれば、マス・メディアを同じように利用している狡賢い人たちはたくさんいる。名前を所謂名前と限定せずに「レッテルを張る」という時の「レッテル」や、ジャンル、カテゴリー、「何々な人」などの表現も含めて考えれば、それがいかに多いかは実感できるだろう。
# by invox | 2011-11-25 11:12 | ■Human
「インモータルズ―神々の戦い―」(IMMORTALS)

監督:ターセム・シン
出演:ヘンリー・カヴィル、フリーダ・ピント、スティーヴン・ドーフ、ルーク・エヴァンス、イザベル・ルーカス、ケラン・ラッツ、ジョセフ・モーガ、ジョン・ハート、ミッキー・ローク

ギリシア神話ではおなじみの名前であるテセウスやハイペリオンが中心となった物語だが、この設定はオリジナルなのか? ギリシア神話にこういう話を見た記憶がない。予告編とは印象が違い、なかなかシリアスなストーリー展開が中心。このへんは「300」とも共通する、この監督の趣向なのだろう。それにしてもギリシア神話に登場する山ほどいる神様たちがここではほんの4,5人しか出てこない。しかも最初の方で「神々は死なないが、他の神々によって殺されることは可能だ」という設定が面白い。また、タイタン族、あるいはティターン族と呼ばれている者たちも、本を質せば「神々」と同じであり、ただ単に「負けた側」の一族郎党であるにすぎない、という設定も面白い。CGは「300」同様にちゃちなものに見えるように作られている。このわざとらしさが味になっていると言えるだろう。いや面白かった。とても楽しめるB級映画だと思う。

「インモータルズ」 _e0006365_23145817.jpg

# by invox | 2011-11-24 23:15 | ■Cinema/Movie

by inVox