人気ブログランキング |
ブログトップ

Out of My Book

invox.exblog.jp

Official inVox Blog; Watched, Read and Listened in my real life.

「人間以上」シオドア・スタージョン

「人間以上」 シオドア・スタージョン 矢野徹訳

e0006365_23121276.jpgスタージョンの代表作という認識でいるこの本をやっと読んだ。始まりから終わりまで主人公が替わっていくというスタイルの小説にも今は違和感がないが、かといってそれが特段好きなスタイルというわけでもない。「白痴」は時として「無垢」として扱われるが、「イノセント」の訳語には「間抜け」もあるのだと知った。人間が知覚を得、世界認識と自己認識をどのように得ていくのか、認知科学や認識論などを知らなくとも、世界や自我の獲得と何かの喪失が表裏一体であるというのは、「当たり前」として普通は意識されないことなのかもしれない。自分というものを初めて強く意識するのは、すなわち世界と自己という二項対立の形として訪れることが「普通」なのか、それとも特殊なのか、それを確認することは厳密には出来ないことだろう。「物心が付く」という表現は一体何を指しているのだろうか。

「連続した記憶」が始まった瞬間を私は強烈に記憶している。それは「引越し」による「世界の、突然の転換」の認知の瞬間であった。かつてロバート・フリップは「ある日突然、自分はなんて他人と違うのだろうか」と意識したと言う。自分を取り巻く世界と自分の差異を強烈に意識せざるを得ない状況に陥った時、人は自分というものを強く意識せざるを得ない。それを無視した時には、自分の存在は自己定義が出来なくなるのではないかと思う。そうすると、「他人と同じ」ことに安心感を求めていくことになるのではないだろうか。そして、その範疇から逸脱することに対してとてつもなく大きな恐怖心を抱くようになるのではないか。あるいは、自分(たち)と違う人間とであった時に、その人間を否定しなければいけないという強迫観念に取り付かれてしまう。でなければ、自分自身を否定することになりかねないからだ。他と同じことで自身の帰属意識が裏づけされている。これが、一般的なことなのか、特殊なのかはよく分からない。人と違うことを求めるのは、私にとっては「普通」の感覚だからだ。

e0006365_2312356.jpg「ホモ・ゲシュタルト」という表現をスタージョンは使っている。自分自身が部分であり、全体である。個でありながら全体に属するということらしい。これが「新しい人間」の種のあり方として提示されている。と言ってしまうと身も蓋もないかもしれないし、誤解してしまっているのかもしれないが、私はそう受け取った。20世紀のSFの中ではこのテーマは何人もの作家によって繰り返し取り上げられてもいる。なぜか。それはおそらく誰も答えを知らないからだろう。個であることを強迫観念的に追い求めてしまうと、発狂してしまうしかない。少なくとも他人から見た場合はそう見えるだろう。全体に属することを追い求めるならば、そこに個人というものは存在せず、個性と呼ばれるものも希薄だ。全体の許容する範囲での個性、いくつかのパターンのバリエーションとしての個性しか許されないのではないだろうか。そういったことを、この本を読んでふと考えた。

翻訳は、ハインラインで好きになった矢野徹さん。国際幻想文学賞受賞作でもある。
by inVox | 2006-04-07 23:12 | ■Books